亜浪「石楠」 東京音楽学校 その1
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八 亜浪「石楠」(大正三年~五年)
東京音楽学校 その1
大正五年四月、恩師である芳賀矢一の推薦によって、
大須賀乙字は東京音楽学校の国語及び修身科の講師となります。
ここは現在の東京芸術大学。
七月に、それまで勤めていた麹町女学校と曹洞宗大学を辞職し、
八月には正式に東京音楽学校の教授及び生徒監となったわけです。
すでに過去の話ではありますが、
前の職場である曹洞宗大学での乙字の指導振りについて、
教え子の源豊秋という人物が
「駒澤に於ける大須賀先生」という追悼文で書いてるので、
少し引用しますね。
「先生の時間は私達とつては最も愉快なものであつた。其の頃の私の日記に『先生の休講の啓示が出てゐたので失望した・・・』と云ふ樣な事の書いてあるのを見出す。先生の講義は生氣に充ちてゐた」
鼻が悪かったので少し鼻声で
息もつかずに流れるように万葉集を朗読し、
講義は快活にというスタイルだったらしく、
学生達に慕われていたようです。
乙字の葬儀で泣き崩れたという、
荻原井泉水の妻慶子も麹町女学校の乙字の教え子でした。
指導者としてみると、
乙字は生徒に慕われる良き教師だったと思われます。
仙台の百文会の後輩だった広田寒山の話などを読んでも、
後述する(予定の)「石楠」以降の弟子たちについて考えても、
やっぱり下のものに慕われるよき指導者ぶりが窺えるんですよね。
ただ「海紅」に関して言えば、
乙字本人は指導者のつもりだったんだけど、
「海紅」同人、つまりもともと同じ碧梧桐の弟子同士だった人達と、
一碧楼ら「試作」同人だった人達は、
「乙字先生」から指導を受けているつもりもなかったんでしょうね。
そう考えると、
乙字がもう少し長生きして、
自分の俳誌を持って直接弟子に指導をしていたら、
と惜しい気持がします。
さて、
新しい職場である東京音楽学校は、
当時数少ない男女共学の学校で、
それについて生徒監だった乙字も何かと気を使ってたみたい。
七月十五日付の羽前の西川松洞宛の書簡でそのことをこぼしてます。
当時の高等教育は、もう20歳をはるかに越えたような人が受けてますし。
というところで、
今回は終りにします。
あんまり新しい職場について書けなかったな。
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