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五 新傾向の終焉  「試作」「朱鞘」創刊



五 新傾向の終焉(明治四十四年~
 「試作」「朱鞘」創刊

さて、「層雲」「アカネ」の他に、
この明治四十四年には、二つの雑誌が創刊されました。
もちろん、
河東碧梧桐門下の関係のみですが。

荻原井泉水の「層雲」が創刊されて、
それを追うように、三井甲之&大須賀乙字が「アカネ」を復刊。
そして、その翌月六月に、
中塚一碧楼と彼の仲間が「試作」を創刊します。
また、久米三汀、つまり久米正雄のことですが、
彼と彼の仲間が「朱鞘」を創刊したのも、同じ六月。

まずは「試作」について。
一碧楼らが「自選俳句」を創刊した、
というのが、前年である明治四十三年の十一月。
この「自選俳句」の第二号が出たのが、明治四十四年になってからなんですが、
実はその頃、一碧楼は岡山ではなくて、東京に出てました。
早稲田大学入学の為ですね。数え年で二十五歳。
で、新たに「試作」として再スタートしたと。
四六倍判四ページという、ささやかな体裁だけど、
希望は大きく
我等青年の細かい情緒を表現する方法として、新しい句を試みた第一歩の叫びである
と宣言。
八百庄は酔ひ死にし葉柳垂れて 一碧楼
「若さ」彫りし像の破壊者避暑に来て 微笑子
などの句が載ったらしいです。

この微笑子という人、麻野微笑子というのがフルネームで、
後に、
再び碧梧桐と一碧楼の糸を結んだ立役者でもあるらしいんですが、
とりあえずこの頃は、「試作」の人。
結構行動派だったみたいで、
「試作」第一号を持って、ホトトギス発行所に高浜虚子を訪ねていきます。
それについて触れたのが随分前のことで、
忘れられてるかも知れませんが、
この頃虚子は、俳句への興味をほとんど失ってました。
しかも新傾向俳句は嫌っていた。
でも
「この傾向は面白い、大いにやりたまえ」
と言ったとか。
「しかし俳句という名を冠するのはどうかと思う」
と続けたらしいですが。
とりあえず、「試作」の若者の意気を大いに上げたエピソードだったんじゃないかと
思われます。

では
「朱鞘」という雑誌はどういうものだったのか。
こちらは、前述したとおり、久米三汀らが作ったもの。
当時まだ一高生だったみたいです、久米くん。
っても、数え年二十一歳、俳句は始めてまだ二三年程度だったとか。
大須賀乙字の母校でもある安積中学に通っていて、
中学四年の時に、たまたま仙台に帰省していた乙字を知り、
その関連で碧梧桐の新傾向俳句を知り、俳句に熱中したんだとか。
明治四十三年に上京して、一高に入学、
「日本俳句」「東京俳句会」でぐぐっと頭角を現わして、
俳壇の麒麟児!
だったらしいですよ。
在京の碧梧桐門の輝ける期待の星ってとこでしょうか。
この三汀と共に「朱鞘」を起こしたのが、内田易川、泉天郎、岡田葵雨城ら。
彼らも「日本俳句」でぐんぐん育った在京の新進作家。
今も汐浴の客あるうらら松曲る 三汀
雛に朱毛氈門外は休め畑 天郎
競馬場の松風や花菜黄に 易川
鳥影や木の芽街道時計台 葵雨城
というような句を作ってたらしいです。

○我等同人は或る場合碧梧桐に盲従するの至当ならむを認む。
○自己の誤謬に出発して謙遜なる態度によりて進まんとす。
○信頼すべき選者によりて得たる価値ある経験を偽るを要せず。

これが「朱鞘」の三か条。
同じ新傾向俳句から出て来た若手作家たちですが、
スタンスが全く違うっていうのが面白いです。
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 2014_12_21


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