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新傾向批判  新傾向の流行



四 新傾向批判(明治四十二年~
 新傾向の流行


明治四十年末から明治四十二年、
河東碧梧桐の再びの旅立ちまでの間を
新傾向俳句の揺籃期で第一期としたら、
この全国俳句行脚パート2が第二期で、
最盛期。
このころについて
久保田万太郎が
「新傾向にあらざれば人にあらず、だった」
と言ってたらしい。

久保田万太郎は、
竹馬やいろはにほへとちりぢりに 万太郎
時計屋の時計春の夜どれがほんと 万太郎
などの句を残した人で、
いわゆる文人俳句と呼ばれるジャンルに置かれるけど、
「春燈」という自分の結社を作っていたれっきとした俳人。
この頃はまだ学生で、
Wikiによれば、
岡本松浜について俳句を始めて、三田俳句会で活動してたみたい。
岡本松浜という人については、
以前書いた
「東京帝国大学時代 俳三昧」
で、
京都から大谷句仏が来て、
海紅堂(碧梧桐さんちね)で句会をしたことが
高浜虚子の「五百句」に
書いてあることを書きましたが、
その時の句会のメンバーの一人である
「松濱」氏が、
この人だと思われます。
ちなみに、松浜も万太郎も、
その後、「ホトトギス」から離れた松根東洋城の下で
俳句の研鑽をしたらしいです。
松根東洋城といえば、
書き漏らしましたが、
不連続「春夏秋冬」シリーズ
「新春夏秋冬」を明治四十一年に編んでます。
まだ、東洋城が「ホトトギス」派だったころの話。

話が大幅に逸れましたが、
まあつまり、
外野から見て、そんな感じなぐらい当時は
新傾向俳句が流行ってたということですね。


そして、
その頂点は、
明治四十二年冬の城ノ崎温泉での俳三昧と、
四十三年の冬の玉島俳三昧になるでしょう。
と、書くと連続してるみたいに見えますが、
その間にほぼ一年が経ってます。
まあ、
山場が二つということで。

当時、明治俳壇に吹き荒れた新傾向俳句ブームの傾向とは
どんなものだったかと言うと、
漢語や新造語を自由に駆使し、畳みかけるように動詞助詞を多用して斡旋する独特のリズム
と、
村山古郷の「大須賀乙字伝」は書いてます。
うーん、
どういう感じかちょっとよくわからない……。

まだ新傾向俳句が、
というか、
碧梧桐らが自分の俳誌を持ってない頃なので、
当時の句を探すのは大変そう。

当時の俳句は、
やっぱり句会と、
あと、
新聞雑誌の俳句欄がメインだったみたいです。

で、
そのちょっとどういう句だったのかハッキリしない新傾向俳句が
集まるのが、
碧梧桐選の「日本俳句」。
で、
そこにどのぐらい投句があったかと言えば、
封筒から出して重ねて、高さが三尺ぐらゐあったものですよ。それは何通とかいってなかなか数へきれない。体量器のカンカンにかけて何貫匁あるかといふことでね
と、後に荻原井泉水が語ったぐらいの量だったという……。
まあ、以前書いたように、一人が一題で千も二千も送ってくるという状況だったのも
嵩が増した理由だったとは思いますが。

あれ、しまった…
大須賀乙字について書くことがなかった…
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