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24時間テレビやってますね。
ものすごく縁遠いイベントなんで、
特にそれ自体には何もいうことはないんですけどね。
コンビニに募金箱が置いてあって、
且つお釣りに小銭が出来た時ぐらいですかね。
縁があるといえば。

マラソンがしんどそうで、つらそうで
ちょっと意味がわかんなくて
24時間テレビは苦手なんですよね。

そういえば、わたしが子供の頃は24時間テレビ内で
手塚アニメやってたなーとか
懐かしく思い出しました。
わたしは微妙に手塚アニメから外れた世代なので、
(世代じゃなくて、わたしが見てなかっただけかも)
子供のときに触れたのは長編アニメばっかり。
マリンエクスプレスとか
ブレーメン4とか
あと、映画だけど火の鳥2772とか。

ジェッターマルスは見てました。
オープニング曲まだ覚えてます。
とっきーはにせーんじゅーごーねん♪
来年がジェッターマルスの年ですね。
懐かしくなって、ネットで画像を漁ってしまいました。
やっぱり可愛らしい。
そういえば、ジェッターマルスって再放送しないですよねぇ。
何か理由があるのかな。

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 2014_08_31



二 東京帝国大学時代(明治三十七年~四十一年)
 一年時 その一

前回、書き忘れたんですが、正岡子規について。
子規が没したのが明治三十五年なので、
乙字が積極的に日本新聞に投句する頃には、もう子規はいませんでした。
「ホトトギス」に投句したことがある、という時代については、
それが何年ごろの話なのかが不明なのでなんともいえませんが、
多分病状が悪化してからのことなんじゃないかなぁ
と、思います。
というわけで、乙字と子規には直接の関係はありません。

春月や幕取り残す山遊び 乙字
踊子の負はれて戻る朧月 乙字
春風や羽織をたゝむ草の上 乙字
青嵐蚕棚を払ふ天気かな 乙字


これらの句は、明治三十七年の句。
三十七年は東京帝大に入学した年なんだけど、
当時は七月卒業九月入学だったんで、
春の句はまだ仙台時代の句に当たるわけです。

俳諧に健やかなれや時鳥 乙字
この句は奥羽百文会への留別の句。
爽やかな上から目線が若々しくて好きです。
「乙字句集」にある、
乙字の仙台時代の後輩広田寒山による「序」によれば

 明治三十七年の夏居士は第二高等学校の独逸文科を卒業した、その夏居士はいろいろ熟慮して大学では国文学を専攻することに決心した。父翁は居士の俳句には初め余り同情を寄せなかつた様に聞いて居る、そういふことの外尚居士には科を転ずるといふ事には種々煩悶があつたことと思はれる。其秋の九月淋しい雨の降つた一夜と覚えて居る、居士はいよいよ東京の文科大学へ入学の為め上京の途に就いた、令弟の炳さんがいろいろ荷物の世話をした、居士は自分の荷物は僅かばかりの俳書だけだと云つて淋しく笑つて居た、私達の一団も見送つたりした

という感じだったみたい。
実際に乙字側にも色々と思うところもあったんだとは思うけど、
この文章からは、やっぱり、
残される側の淋しさが感じられますね。
当時後輩からはかなり慕われていたらしいです。

それにしても、
母うめが乙字が俳句をするのを嫌がったというのは分かるんです。
自分が詩人の嫁になって非常に苦労したらしいですから。
ほら、例の「詩人だからー」なフラフラ期に。
しかし、
当の「詩人だからー」な父いん軒までが、
乙字の俳句に理解を示さなかったっていうのは…。
「お母さんにあまり心配をかけるな」
的な意味なのか、
もっと違う考えからなのか。

さて、上京してすぐのある夜、突然金田一京助の下宿に乙字が訪れます。
前回も書きましたが、金田一秀穂氏のじっちゃんの方の金田一です。
特に親しくもなかったし何かと思ったら、
高校では独逸文科だったけど、大学では国文科に転向します、
同じ科になるからよろしくね
っていう挨拶だったみたいです。
が、
実は金田一はもともと国文科を志望してはいたけど、
やっぱり言語学科にしようと考えてる時だったので、
なんか締まらない感じになっちゃったみたいです。
ま、まあ同じ文科ではあるし、同郷の同級生だし
ということで、お互いによろしくってことになったという。
アンガールズのジャンガジャンガ的な雰囲気ですなぁ。
まあ
実際、これを期に友人になったのは確かなようです。
このあたりのエピソードは
「俳句研究」昭和十二年八月号「大須賀乙字の想ひ出」金田一京助
にありました。
この記事には、その後の話ですが
金田一の下宿で石川啄木と乙字の邂逅とか
折口信夫と乙字の論戦の話とか書いてあって
なんというか、やっぱりゴージャスな時代なんだなぁと
思ったものでした。

うーん
まとめようと思って書いてるのに、意外に間延びしてしまうなぁ。
ということで続きはまた。

 2014_08_30




わたしは現在ひとつの句会だけに参加してますが、
一ヶ月に句会が一度だけって
ちょっと淋しいなぁと思ってました。

で、今度ウチの結社内の句会で、
もう一つ参加できそうなところがあるらしいので、
参加したい旨を人を通じて伝えたところ、
好感触のようなので、
10月から行けそうでうれしい。
ちなみに9月はその句会では吟行なんだそうで、
10月からということになりました。

でも9月は結社の例句会もあるしー
(ウチの結社では隔月に開催されるんです)
句会があると思うと、
句を作ったり選んだりもちょっと気合が入るよね。
(そうでもない?)

句会といえば、
ネット句会ってありますね。
現在参加してるネット句会ってないんですが、
かなり以前には参加したりしてました。
ネット句会の黎明期をちょっと過ぎたぐらい?
みたいな頃だったんじゃないかなと思います。
って適当すぎるか。
色々覚えてなくて申し訳ないけど
なんかご褒美に蝸牛社の句帳とかプレゼントしてもらったことだけ
妙に覚えてます。
茶色のステキな句帳だったなぁ。

まあ
わたしは句帳使わないんですけどね。
手帳を使う癖がついてないんで
句帳もなんとなく使いこなせない。
出先ではもっぱら携帯のメモ機能を使ってます。

それはそうと
ネット句会
しばらく遊んでみて、結局やめちゃったんですよね。
その理由って何かあったかなぁと
記憶を手繰ってみると、
まだ自分の句の方向性がしっかり定まってない時に、
雑多な俳句の物差しであれこれ評価されるのって
自分がぶれちゃわないかなって危惧があったから…
だったような気がします。
あと、俳号で出す句とハンドルネームで出す句が、
自分の中で分かれちゃって、なんとなく落ち着かない気持になったから…。

今月から始めたこのブログでも、
前書の代りに「絵本」を使ってみるという遊びで
自分の俳号の代りにハンドルをつかってますが、
本当は俳号でブログ出来たらよかったなぁって
今でも思ってます。

でもさー
殆ど本名な俳号なんだよね。
別に本名ばれても良いような気もするけど、
なんとなく恥ずかしい。
こうやって日記的なものを書いてるから
きっと本名で公開するのが恥ずかしいんだろうね。
 2014_08_29


ガチャガチャ

Category: 日記  


ガチャガチャのガンダムの吸盤つきスマフォスタンド。
ガンキャノンが欲しかったけど、
出たのはこの二つ。

量産タイプのザクと
Gスマホスタンド01

ギレン・ザビの演説姿
gstand2.jpg

横から見るとこんな感じ。
gstand003.jpg

うーん、まあ
これはこれで。
画像の大きさが全部違うのが何ともいえませんが。


思って早速使おうと思ったんですが…。

スマフォケースがつるつるじゃないので
吸盤がくっつかない!

がーんだな…

仕方なく表側で使って見たんですが
表面に微妙に吸盤のわっかの跡が残るんですよね。

使えないなぁ。

新しいスマフォケースを買うときは、
表面がつるつるしたやつにしよう。
 2014_08_28




号乙字

乙字が俳句を作り出したのは、仙台第一中学時代とか言われてます。
といっても、安積中学に三学年まで在籍して、
その後仙台第一中学に転入学してるので、そんなに幼い頃でもないみたい。
っていうか、小学校も高等まで進んでますしね。

そいで、友人たちと句会をするにあたって、
俳号がないといけないってことになって、
字画の少ない字を探したら「乙」の字があって、
じゃあ「乙」の字の何かいい熟語がないか調べたら
「虎之威如乙字」というのを発見して、威勢いいなと決めたんだそうです。
ちなみに、乙字という俳号にはもう一つ説があって、
郡山近くの阿武隈川にある乙字の滝から号を取った
と。
どっちが正しいか分からないです。
というのも、どっちも乙字の口から出た説だから。

中学時代は「黒門会」高校時代は「半鈍会」という会を
友達と作って俳句を楽しんでいたらしいです。これらは完全な内輪の会っぽいですが、
他にも「奥羽百文会」という割と大きな句会にも参加するようになって、
ここでは幹事として、あれこれ手配したり後輩の指導にあたったりしていたようです。

ちなみに、乙字の句が最初に活字になったのは、「ホトトギス」らしいです。
と、いっても、地方句会報みたいな欄。
金魚名を一点紅と申すなり 乙字
というのが、その時の句。「イッテンコー」って読むのかな。
なんとなくいいなぁ。イッテンコー。

それより前の話になるけど、「ホトトギス」に投句したことも二三回ほどあったみたい。
でも
「一句も採られなかったので癪にさわって
それから三四年の間、どこへも投句しなかった」
と、本人が後になって、手紙に書いてます。
密かに古人の句集を読み、筆記して暗記したり、その口調をまねてみたり、
一日に百句つくったり、逆に一句に二ヶ月も三ヶ月もかけたり。
まあ、そんな感じで高校時代の半ばぐらいから、また中央の新聞に投句を始めたみたい。
その頃になると、十句のうち四五句は採ってもらえたみたい。
「奥羽百文会」などで研鑽してきて、自信もついたってとこでしょうか。
明治三十六、七年ごろからは、特に「日本新聞」の河東碧梧桐選に出句をし始めます。

高校時代の乙字について、意外にもアノ金田一京助が書き残してます。
金田一はじめちゃんの「じっちゃんの名にかけて!」
の「じっちゃん」ではありません。
某クイズ番組でもお馴染みの金田一秀穂氏のじっちゃんの方です。
どうも、仙台二高、東京帝国大学と同級生だったらしいんですよ。二人は。
とはいっても、高校時代は科が違っていたので、合同授業の時しか会うこともなくて、
しかも、金田一は「野次だなー」と割と冷ややかな目で見ていただけみたい。
この「野次だな」という当時の乙字への印象を表した言葉ですが、
別々の原稿でそれぞれそう書いているので、
よっぽど金田一は高校時代の乙字を「野次だな」って思ってたんでしょうね。
どう野次だったかというと、
まず
人一倍の腕白振りが鳴つて居た」(「万緑」S23 21号『乙字追懐』)
そうで、
具体的には
授業中、名簿を取るときだけ返事をして、その後は窓をさっと乗り越えて
すぐ外にあるテニスコートでテニスに興じるような感じ。
しかもそこで大声で笑ったりしてるんで、
真面目に授業を受けてる金田一の耳にもそれが聞えてきてたみたい。
そんなんでもちゃんと東京帝国大学行けるんですねぇ。

というわけで、次回は その東京帝国大学時代について書こうと思います。

 2014_08_27



夏休みの娘が何か図書館関係のレポート書くのに、
なぜかわたしのPC使ってました。
自分のPCだってあるのに…。
その間ヒマだったので、漫画読んでました。
この間のブックオフのセールで、一冊当り70円だったので、
今更ながら大人買いした「デスノート」。
ミサミサかわいいわー。
ミサミサと死神連中に癒されるー。
でも
やっぱり結末分かってるから12巻は読めないわー。

これから痛恨のミスをやらかす、とか
ここから負ける、とか
ささいなところなら
このあとの一言で寒い空気になる、
みたいな雰囲気が濃厚になると、
ドラマでも何でもちょっと目をそらしてしまう。
そういうのってアルよね?

11巻が終ったところで、まだPCがあかないので
手塚治虫の「三つ目がとおる」読んでました。
2008年に出たコンビニ本のやつ。
それにしても和登さんは脱ぎっぷり…いや、衣服のはがれっぷりがスゴイね。
いつ読んでも。(当たり前か)
ていうか、和登さんってそれが名前だと思ってたけど、苗字なんだね。

ヤングアダルト向けの資料収集の問題点について、
意見を求められたので、適当に答えていたんですが、
手塚治虫の漫画って、図書館にわりと置いてあること多いですよね。
あれって手塚漫画のどの辺りまでOKなんでしょう。
「火の鳥」「ブッダ」「アドルフに告ぐ」「ブラックジャック」
この辺りは割りと見かける気がするけど。
子供が手に取る可能性とか考えると、その辺りまでって感じになるのかな。
子供がーって考えると、「奇子」とか「ムウ」とかは完全にダメかな。
まあ、図書館にあっていいかどうかだけなら、
いいんだろうけどね。
じゃあ、この「三つ目がとおる」はどうなんだろう。
和登さんの裸は、奇子に負けないスタイルの良さだけど、
セクシー度は完全に負けるよね。
裸だ半裸だパンツ丸見えだっていう状況の頻度としては
「ドラえもん」のしずかちゃんの裸以上、「サザエさん」のワカメのパンチラ以下というところでしょうか?
セクシー度はどっこいどっこい?
とか
つまんない事を考えているうちに
やっとPCがあいたので、
こうやって忘れないうちに書いているわけです。

 2014_08_26



ブログのテンプレートを変更しました。

今まで使ってたやつ、
特に私がフォント設定したわけじゃないんですが、
字がちっちゃかったですよね。

特に昨日
文字の詰った記事をアップしたら
我ながら読みにくいなぁ
と反省。


 2014_08_26




一 仙台時代(明治十四年~三十七年)

父筠軒

 乙字が生れたのは、明治十四年七月二十九日。福島県。
本名は大須賀績(いさお)。
順番的には次男なんだけど、実際はほとんど長男に近い存在。
というのも、前年に兄が生れてるんだけど、その年に亡くなってるから。

ここでちょっと乙字のお父さんについて。
お父さんは、名前を大須賀次郎といいます。が、当時結構高名な漢詩漢学者で、号を筠軒と名乗ったので、以後は、いん軒と書くことにします。

江戸時代後期の儒者、神林復所の男として三男として生まれ、若くして江戸表に出て詩壇で頭角を表したんですが、幕末の混乱期に訳あって帰農。
二十二歳の時に福島県の網元大須賀家に婿養子として入ります。

さて、いん軒は、明治四年の廃藩置県までは平藩の藩校の講師をしていましたが、その後明治十二年に郡長になります。
五年から十一年までは何をやってたんだとか、っていうか、大須賀家は網元だったんじゃねーの?という疑問が出てきますが、その辺りちょっとよく分かりません。というか、まだ乙字本人の資料集めに一生懸命で乙字のお父さんの資料にまで手が回りません。
奥さんは、大須賀の一人娘で茂登(もと)という人だったそうですが、明治十一年に亡くなってしまいます。それで、翌十二年に、国府田というお家から、うめという人を後妻にもらってます。このうめさんが乙字のお母さんに当たります。

まあ、そいで前述の通り明治十四年に乙字誕生ということになるわけですが、明治十五年に、いん軒は郡長をやめて各地を遊歴しております。息子生れたばっかりでなにやってんだとつっこみたくなりますが、

村山古郷「大須賀乙字伝」では

詩を愛し自由な世界にあこがれる筠軒は、家事の煩わしさを免れるために、各地を放浪したらしい。

河内静魚「わが心の俳人伝」では

筠軒自身も詩人的性格で生活力は旺盛でなく、自由な生活に憧れ、仕事に熱意がなく、旅好きで放浪することが多かった。

と、とりあえず「詩人だからー」という論調で語られてます。

まあ、そんなだから、一家は非常に苦しい生活をしていたらしいです。と、いっても、その頃既に名の通った学者で詩人で、且つ画人だったようで、私塾のようなものも開いていたみたいです。放浪しっぱなしで帰って来ない、というような雰囲気ではないみたい。
その証拠に、乙字が生れた後、四年後に弟、翌年に弟、小学三年の時にまた弟、小学四年のときに妹が生れてますし。
いん軒には画弟子さんとかもいて、乙字がやんちゃしたときに、その画弟子さんと迎えにいったというようなエピソードも残されてます。

「大須賀乙字伝」にはこの乙字の幼少時代のやんちゃエピソードについて、「乙字書簡集」の『書簡集の後に』という名和三幹竹の書いた文章を元にしていることが書いてあって、たしかに、その通りなんですが、
「わが心の俳人伝」ではちょっとだけ違ってて、前者は三幹竹が乙字から聞いた話で、暗い夜道を恐がりもせずにといった雰囲気なのに対して、後者は、暗い道を帰るのがよっぽど恐かったらしく、その時の不安と後悔を生涯忘れていない、と乙字の心情が語られてます。なにかそういう資料が新たに見つかったんだろうなぁと思うんですが、それが何だったのか分からなくて残念です。

それは、おいておいて。
言っても、人生の半分を学校に通ってる乙字の実家ですよ。長く貧乏だったらそんな事できる訳が無い。
乙字が小学校高等科二年の頃に、父いん軒が安積中学に勤めるようになって、そこから生活が安定していったみたいです。

こんな感じで、また。

 2014_08_25




乙字について調べたことを、
自分なりに整理するためにちょっとまとめてみることにします。
やっぱりわかりやすいように
時系列で。

一 仙台時代(明治十四年~三十七年)

二 東京帝国大学時代(明治三十七年~四十一年)

三 新傾向の発見(明治四十年~四十二年)

四 新傾向批判(明治四十二年~

五 新傾向の終焉(明治四十四年~

六 妻千代について

七 碧梧桐との訣別(大正元年~四年)

八 亜浪「石楠」(大正三年~五年)

九 「石楠」後半(大正六年~七年)

十 季感象徴論(大正八年)

十一 寒雷忌(大正八年~九年)

とりあえず、時系列的に10に分けて、
それプラスで妻についての項目を入れました。

一章の小見出し的には

 父筠軒(いんけん いんの字は竹カンムリに均)
 号乙字

というところでしょうか。
生れる前から、二十四歳(数え年ね)までなので、
乙字の人生の半分以上にあたる章なんですが、
たった二つの項目でいいんだろうか…。
でも、資料がそんなにないから仕方ないんです。
まだ世に出てない頃ですしね。

まあ、こんな感じで、次回からは
その内容について触れて行きたいと思ってます。

とりあえず、タイトルを
「わたしの乙字のーと(仮)」とでもしときます。
だ…ださい…とか
思っても言わないで。

 2014_08_24




昨日のアボカドディップが朝には変色してかにみそ色に。
レモン汁が足りなかったか、一晩は長かったか、
どっちでしょうか。どっちもでしょうか。
ぴっちりラップして冷凍しておけばよかったかなぁ。
ってほど余ってもなかったか。

ところで、わたしが以前アップした100の質問の中に
中村草田男の写真があります。
これは
「俳句」臨時増刊号 俳句年鑑
に載っていたものです。
36nnenkan0.jpg
昭和三十六年の。

西東三鬼の還暦記念会での一枚のようです。

この本は、もともと私の祖父の持っていたものらしいのですが、
何か回りまわって私のところに止まってます。

中身もなかなか面白くて、
作品展望を
西東三鬼
秋元不死男
原子公平
石原八束
の四人が書いてますが、
執筆陣も豪華なら、掲載される俳人も豪華。

石田波郷について

 この作家はいよいよ老成してしまい、他の批評など何処吹く風という趣である。筆者は波郷を「私」の立場を厳守する、最も純粋な伝統俳人と考える。年少にして名を成し、伝統俳句に青春を加えつづけて来た波郷は、今や庭前に群立する樹木をひたすら愛撫し、若き隠者の風貌である。

と、評しているのが三鬼。

 俳句の器には情が盛られねばならないが、むずかしいのはその分量と処理だ。多すぎてもいけず、少なすぎてもいけず、流してしまっても、止めてしまってもいけず、俳句の厄介さの根は底が深い。一応、思い切り太胆にやつてみて退くのも方法であろう。湘子はそれを試みているのかも知れない。そうだとすれば小じんまりと纏ろうとする俳人より遥かに小気味がよい。惰性で句を作らなかった一人である。

と、藤田湘子を評しているのが秋元不死男。

 振幅度はかすかながらも、明暗二相が織りなす龍太作品の歩みを見ていると、やはり現代俳句における曲者の一人という気がしてくるのである。

と、原子公平が飯田龍太を評し、

 服喪の日常に於ける雜事には、しかし乍らかならずしも追いたおされず、その俗事をも俳句の中に生かしきつて、自由にのびのびと作句生活にひたつているように眺められた。それがまた父翁虚子が生涯をかけてこの人たちに教えた俳句道というものであつたろう。

というのは、星野立子を評した石原八束。

豪華豪華と書いたけど、
今から五十年ぐらいたって、今の俳句年鑑を見た人も、
豪華だなぁって思うのかも知れない。


 2014_08_23




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プロフィール

Sima

Author:Sima
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是非コメントください。
よろしくお願いします。

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