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号乙字

乙字が俳句を作り出したのは、仙台第一中学時代とか言われてます。
といっても、安積中学に三学年まで在籍して、
その後仙台第一中学に転入学してるので、そんなに幼い頃でもないみたい。
っていうか、小学校も高等まで進んでますしね。

そいで、友人たちと句会をするにあたって、
俳号がないといけないってことになって、
字画の少ない字を探したら「乙」の字があって、
じゃあ「乙」の字の何かいい熟語がないか調べたら
「虎之威如乙字」というのを発見して、威勢いいなと決めたんだそうです。
ちなみに、乙字という俳号にはもう一つ説があって、
郡山近くの阿武隈川にある乙字の滝から号を取った
と。
どっちが正しいか分からないです。
というのも、どっちも乙字の口から出た説だから。

中学時代は「黒門会」高校時代は「半鈍会」という会を
友達と作って俳句を楽しんでいたらしいです。これらは完全な内輪の会っぽいですが、
他にも「奥羽百文会」という割と大きな句会にも参加するようになって、
ここでは幹事として、あれこれ手配したり後輩の指導にあたったりしていたようです。

ちなみに、乙字の句が最初に活字になったのは、「ホトトギス」らしいです。
と、いっても、地方句会報みたいな欄。
金魚名を一点紅と申すなり 乙字
というのが、その時の句。「イッテンコー」って読むのかな。
なんとなくいいなぁ。イッテンコー。

それより前の話になるけど、「ホトトギス」に投句したことも二三回ほどあったみたい。
でも
「一句も採られなかったので癪にさわって
それから三四年の間、どこへも投句しなかった」
と、本人が後になって、手紙に書いてます。
密かに古人の句集を読み、筆記して暗記したり、その口調をまねてみたり、
一日に百句つくったり、逆に一句に二ヶ月も三ヶ月もかけたり。
まあ、そんな感じで高校時代の半ばぐらいから、また中央の新聞に投句を始めたみたい。
その頃になると、十句のうち四五句は採ってもらえたみたい。
「奥羽百文会」などで研鑽してきて、自信もついたってとこでしょうか。
明治三十六、七年ごろからは、特に「日本新聞」の河東碧梧桐選に出句をし始めます。

高校時代の乙字について、意外にもアノ金田一京助が書き残してます。
金田一はじめちゃんの「じっちゃんの名にかけて!」
の「じっちゃん」ではありません。
某クイズ番組でもお馴染みの金田一秀穂氏のじっちゃんの方です。
どうも、仙台二高、東京帝国大学と同級生だったらしいんですよ。二人は。
とはいっても、高校時代は科が違っていたので、合同授業の時しか会うこともなくて、
しかも、金田一は「野次だなー」と割と冷ややかな目で見ていただけみたい。
この「野次だな」という当時の乙字への印象を表した言葉ですが、
別々の原稿でそれぞれそう書いているので、
よっぽど金田一は高校時代の乙字を「野次だな」って思ってたんでしょうね。
どう野次だったかというと、
まず
人一倍の腕白振りが鳴つて居た」(「万緑」S23 21号『乙字追懐』)
そうで、
具体的には
授業中、名簿を取るときだけ返事をして、その後は窓をさっと乗り越えて
すぐ外にあるテニスコートでテニスに興じるような感じ。
しかもそこで大声で笑ったりしてるんで、
真面目に授業を受けてる金田一の耳にもそれが聞えてきてたみたい。
そんなんでもちゃんと東京帝国大学行けるんですねぇ。

というわけで、次回は その東京帝国大学時代について書こうと思います。

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 2014_08_27




一 仙台時代(明治十四年~三十七年)

父筠軒

 乙字が生れたのは、明治十四年七月二十九日。福島県。
本名は大須賀績(いさお)。
順番的には次男なんだけど、実際はほとんど長男に近い存在。
というのも、前年に兄が生れてるんだけど、その年に亡くなってるから。

ここでちょっと乙字のお父さんについて。
お父さんは、名前を大須賀次郎といいます。が、当時結構高名な漢詩漢学者で、号を筠軒と名乗ったので、以後は、いん軒と書くことにします。

江戸時代後期の儒者、神林復所の男として三男として生まれ、若くして江戸表に出て詩壇で頭角を表したんですが、幕末の混乱期に訳あって帰農。
二十二歳の時に福島県の網元大須賀家に婿養子として入ります。

さて、いん軒は、明治四年の廃藩置県までは平藩の藩校の講師をしていましたが、その後明治十二年に郡長になります。
五年から十一年までは何をやってたんだとか、っていうか、大須賀家は網元だったんじゃねーの?という疑問が出てきますが、その辺りちょっとよく分かりません。というか、まだ乙字本人の資料集めに一生懸命で乙字のお父さんの資料にまで手が回りません。
奥さんは、大須賀の一人娘で茂登(もと)という人だったそうですが、明治十一年に亡くなってしまいます。それで、翌十二年に、国府田というお家から、うめという人を後妻にもらってます。このうめさんが乙字のお母さんに当たります。

まあ、そいで前述の通り明治十四年に乙字誕生ということになるわけですが、明治十五年に、いん軒は郡長をやめて各地を遊歴しております。息子生れたばっかりでなにやってんだとつっこみたくなりますが、

村山古郷「大須賀乙字伝」では

詩を愛し自由な世界にあこがれる筠軒は、家事の煩わしさを免れるために、各地を放浪したらしい。

河内静魚「わが心の俳人伝」では

筠軒自身も詩人的性格で生活力は旺盛でなく、自由な生活に憧れ、仕事に熱意がなく、旅好きで放浪することが多かった。

と、とりあえず「詩人だからー」という論調で語られてます。

まあ、そんなだから、一家は非常に苦しい生活をしていたらしいです。と、いっても、その頃既に名の通った学者で詩人で、且つ画人だったようで、私塾のようなものも開いていたみたいです。放浪しっぱなしで帰って来ない、というような雰囲気ではないみたい。
その証拠に、乙字が生れた後、四年後に弟、翌年に弟、小学三年の時にまた弟、小学四年のときに妹が生れてますし。
いん軒には画弟子さんとかもいて、乙字がやんちゃしたときに、その画弟子さんと迎えにいったというようなエピソードも残されてます。

「大須賀乙字伝」にはこの乙字の幼少時代のやんちゃエピソードについて、「乙字書簡集」の『書簡集の後に』という名和三幹竹の書いた文章を元にしていることが書いてあって、たしかに、その通りなんですが、
「わが心の俳人伝」ではちょっとだけ違ってて、前者は三幹竹が乙字から聞いた話で、暗い夜道を恐がりもせずにといった雰囲気なのに対して、後者は、暗い道を帰るのがよっぽど恐かったらしく、その時の不安と後悔を生涯忘れていない、と乙字の心情が語られてます。なにかそういう資料が新たに見つかったんだろうなぁと思うんですが、それが何だったのか分からなくて残念です。

それは、おいておいて。
言っても、人生の半分を学校に通ってる乙字の実家ですよ。長く貧乏だったらそんな事できる訳が無い。
乙字が小学校高等科二年の頃に、父いん軒が安積中学に勤めるようになって、そこから生活が安定していったみたいです。

こんな感じで、また。

 2014_08_25




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