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  八 亜浪「石楠」(大正三年~五年) 
  再婚
  
大正五年の十二月二十七日、
大須賀乙字は再婚します。
相手は東京高等師範学校の教授松井簡治の次女まつ子。
恩師芳賀矢一の奥さんの鋼子の紹介で、
見合いの席も芳賀邸で行われたのだとか。

この見合いの場に、乙字は精一を連れて行ったんだとか。
そのことを聞いた内藤鳴雪は、
それは大変珍しい例で実に世間への好模範である
と大賛成を表したというエピソードが残ってます。
内藤鳴雪は、乙字とは違う俳句を志向した当時の俳壇の重鎮ですが、
乙字再婚とか見合いに連れ子みたいな話を漏れ聞くぐらいには、
当時の俳壇が狭いか、鳴雪の見識が広かったかするんでしょうね。
翌年四月に、鳴雪の古稀の祝賀会があって、
これはけっこう大掛かりな会だったんですが、
乙字もそれに出席してます。
もっと以前、乙字がまだ学生だった頃などは、
句会の帰り道が一緒で、並んで歩いたりもしたらしいし。
なんだかんだで内藤鳴雪は乙字を気にしてくれてたんでしょうか。
山一角雪崩れて寒き谺哉 内藤鳴雪
これは乙字の訃報を聞いて詠まれた追悼句。

と、
話が脱線してしまいましたが、
結婚披露宴は上野の精養軒で盛大に行われました。
媒酌人には芳賀矢一がなる筈だったらしいんですが、
芳賀矢一が洋行中だったので、
代りに「常盤木」社主の川俣馨一が媒酌人となったとか。

明けて六年新春三日、
乙字はまつ子と共に京都に新婚旅行に出かけます。
京都では、名和三幹竹の下宿していた下珠数屋町にある旅館に泊り、
三幹竹の案内で句仏上人(大谷句仏)に会い、
粟津水棹と共に嵯峨に遊んだようです。
  枳殼邸拝観一句
 冬木中小鳥闘ふ日ざしかな
という句は、この新婚旅行の折の句と思われます。
ちなみに枳殼邸は、
真宗大谷派の本山東本願寺の別邸のこと。
周囲に枳殼(からたち)が植えてあったことから
こう呼ばれるようになったとか。
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 2015_03_31




  八 亜浪「石楠」(大正三年~五年)

 東京音楽学校 その3


東京音楽学校での、大須賀乙字について。
もうすこしだけ、書いてみたい、
というか、わたしの文章じゃなくて
ほとんど引用になってますけども。

音楽家の小松耕輔は、教員仲間だったようで、
乙字も小松耕輔も酒が好きだったことから、
残っているエピソードもその関係。

同じ母校の国語教授大須賀乙字(績)は、碧梧桐、虚子にならぶ子規門下の巨匠として、俳論に実作に縦横の活躍をした人だが、その酒はいかにも文人らしく、優しく上品だった。酔がまわるとよく元禄時代の小噺などを得意とした。
耕輔が、長年なじんだ短歌から離れて晩年は俳句を専門に詠んだことは、それは万古刀庵たらぬ俳人乙字の"酒ぶり"を身(み)につけたものといえるだろう。


という文章は、
あきた(通巻72巻)1968年(昭和43年)
人・その思想と生涯(28) ◆ 小松耕輔 (小松末松)
の中にあります。

俳句関係者との酒の付き合い方と、
全く違うイメージの「優しく上品」という言葉にびっくりしますが、
どうも、基本的には、乙字はそういう人だったみたい。

多分、それについて書くのはまだ先になるとは思いますが、
親友だった三井甲之の『親鸞研究』はしがきにある

同志大須賀乙字が虚子碧梧桐一派とは別の道を行くのを正しいと思っておったが、乙字が晩年文士連と交際して飲酒の機会の多かったことも早世の原因の一つとなったらしい。

の中の、「文士連と交際して飲酒の機会の多かったこと」というのは、
岩野泡鳴の主宰していた「十日会」のことを指してるんじゃないかと思うんですが、
ここでも乙字は、
なかなか紳士的な人だったみたい。

もう一人、音楽学校の邦楽調査掛調査嘱託として、
後に音楽評論家として活躍した兼常清佐という人が書いたものを紹介します。
兼常は「俳人オツジと575物語」という随筆を書き残してます。

 私は「俳句というものは、下らないものですなァ!」といったら、オツジはげらげら笑っていた。その笑った様子ではなかなかの好人物で、舎監をするような悪党とは思えなかった。そのあとでオツジは俳句の事をいろいろ説法したようであったが、ろくろく聞いていなかったから、何を言ったか今は覚えていない。ただ覚えている事は、机の引出しから沢山の絵葉書を出して見せた事である。その絵葉書はトワダ湖から流れてくるオイラセの谷の絵葉書であった。
 オツジはしきりにそれを絶景だと賞讃していた。「俳句なんか作る人にこんな雄大な景色がわかりますか?俳句を作るには、古池に蛙が一匹いればよくはないですか」と私が言ったらオツジはまたげらげらと笑った。オツジは俳人のくせに、存外好人物だったらしい

(『音楽と生活 兼常清佐随筆集』「俳人オツジと575物語」)。

お酒の飲み方だけでなく、俳句について語るにしても、
相手が俳人かそうでないかで随分雰囲気が違うところが面白いです。


 2015_03_29




  八 亜浪「石楠」(大正三年~五年)
 東京音楽学校 その2

大正五年に大須賀乙字が勤めだした東京音楽学校。
大正九年の一月に乙字が没するまで、ここで教職についてました。
さすがに、音楽学校だけあって、
作詞や外国の楽曲の訳詞も多く頼まれて
それに少なからぬ時間を費やしたのだとか。
乙字が手がけた作詞や訳詩のほとんどが、
残念ながら現在ほとんど歌われないらしいんですが、
その中で、現在も歌われている校歌があるらしいです。
それが山梨県立日川高校の校歌。
戦前の校歌と戦後の校歌が変らない学校というのは全国にも余りないみたい。
その一番をここに紹介します。

山梨県立日川高等学校 校歌
詩 大須賀乙字
曲 岡野貞一

天地の生気甲南に
籠りて聖き富士が根を
高き理想と仰ぐとき
我等が胸に希望あり


日川高校では「天地の生気」と呼んで親しまれているようで、
昭和六十年に発行された同校の同窓会会誌『同窓だよ!』第二十三号には、
校歌「天地の生気」についての特集が組まれてます。
それによれば、当時の音楽教諭が東京音楽学校の卒業生で、
恩師の岡野貞一に作曲を依頼したらしい。
大正五年に東京音楽学校に乙字が赴任してきたので、
岡野が乙字を推薦したのではないかということでした。

さて、乙字の東京音楽学校での出来事の中のいくつかは、
今後紹介する乙字のエピソードの中で触れることもあるかと思います。
なので、
それとはあまりリンクしないエピソードを少し紹介しておきます。

まずは、昭和九年に書かれたの高浜虚子の『俳談』から。
乙字が虚子のところへ来て、こんな話をした、というものなんですが、
東京音楽学校に池内という能楽の権威が見えたことがあったとか。
この池内氏について、はっきり名前は書いてないけど、
池内信嘉氏のことみたい。虚子のお兄さんですね。
で、乙字がその池内氏と対面することになったんだとか。
私は大須賀という者で、
俳句の方ではあなたの弟さんと知り合いなんですよ
みたいな事を言おうとしたときに、
「令弟の虚子……」まで口にした瞬間、
「先生」と続けようか「さん」と続けようか迷って、
ついに思い切って「虚子君」と言ってしまったことがある、
言ってしまってから、脇の下から汗がタラタラ流れた、
という話を、虚子本人に乙字がしたらしいです。
乙字は可愛いところのある男でしたよ。
から始まって
稚気と云ふか、正直なところがある。
で終る虚子の文章なので、
虚子としても笑い話として心に残ってたみたい。

 2015_03_24




  八 亜浪「石楠」(大正三年~五年)
 東京音楽学校 その1

大正五年四月、恩師である芳賀矢一の推薦によって、
大須賀乙字は東京音楽学校の国語及び修身科の講師となります。
ここは現在の東京芸術大学。
七月に、それまで勤めていた麹町女学校と曹洞宗大学を辞職し、
八月には正式に東京音楽学校の教授及び生徒監となったわけです。
すでに過去の話ではありますが、
前の職場である曹洞宗大学での乙字の指導振りについて、
教え子の源豊秋という人物が
「駒澤に於ける大須賀先生」という追悼文で書いてるので、
少し引用しますね。
先生の時間は私達とつては最も愉快なものであつた。其の頃の私の日記に『先生の休講の啓示が出てゐたので失望した・・・』と云ふ樣な事の書いてあるのを見出す。先生の講義は生氣に充ちてゐた
鼻が悪かったので少し鼻声で
息もつかずに流れるように万葉集を朗読し、
講義は快活にというスタイルだったらしく、
学生達に慕われていたようです。

乙字の葬儀で泣き崩れたという、
荻原井泉水の妻慶子も麹町女学校の乙字の教え子でした。
指導者としてみると、
乙字は生徒に慕われる良き教師だったと思われます。
仙台の百文会の後輩だった広田寒山の話などを読んでも、
後述する(予定の)「石楠」以降の弟子たちについて考えても、
やっぱり下のものに慕われるよき指導者ぶりが窺えるんですよね。
ただ「海紅」に関して言えば、
乙字本人は指導者のつもりだったんだけど、
「海紅」同人、つまりもともと同じ碧梧桐の弟子同士だった人達と、
一碧楼ら「試作」同人だった人達は、
「乙字先生」から指導を受けているつもりもなかったんでしょうね。
そう考えると、
乙字がもう少し長生きして、
自分の俳誌を持って直接弟子に指導をしていたら、
と惜しい気持がします。

さて、
新しい職場である東京音楽学校は、
当時数少ない男女共学の学校で、
それについて生徒監だった乙字も何かと気を使ってたみたい。
七月十五日付の羽前の西川松洞宛の書簡でそのことをこぼしてます。
当時の高等教育は、もう20歳をはるかに越えたような人が受けてますし。
というところで、
今回は終りにします。
あんまり新しい職場について書けなかったな。

 2015_03_22




 八 亜浪「石楠」(大正三年~五年)
碧梧桐句集 その2

大正五年に大須賀乙字が編纂した「碧梧桐句集」にある、
二つ目のエピソード。
それはこの句集の凡例の最後に書かれている
一、本集編纂には原石鼎君の助力を得たり深く同君に謝す
という文。
原石鼎は
大正二年の俳句界は二人の新人を得たり。曰く普羅、曰く石鼎
と並び賞された「ホトトギス」の俳人で、
色々と転々としてたんですが
大正四年に再び上京して、
この頃は「ホトトギス」で働いてました。
ホトトギスの課題選者にも抜擢されているという、
指導的立場の人なんですが、
「ホトトギス」で働いてるって言っても、
どうやら使いっ走りのようなことをして暮らしていたらしいです。
街かげにわれも掛乞の一人なる 石鼎
これは大正五年の石鼎の句。
「ホトトギスにて売れる小鼓といふ酒の集金に」
という前書があります。
大正四年から西山泊雲の酒造で作られた酒に
虚子が「小鼓」と命名したものをホトトギスで販売してて、
石鼎はこの酒を注文先に届けたり、
掛け取りをしたりしていたのだとか。
で、
「小鼓」の客の一人が実は乙字で、
何度も配達に来ているうちに、
石鼎の苦しい生活状況などを聞いてたみたい。
それで「碧梧桐句集」の清記の手伝いを石鼎に頼んで、
出版社からの稿料を石鼎に与えたんだとか。

考えてみると、乙字と「ホトトギス」というのも、
なんだか不思議な関係なんですよね。
なんども虚子攻撃の論を張って、
「ホトトギス」に載ってる彼らの句をくさして、
それでいて不思議と乙字とホトトギスは完全に断絶してないという。
次回、乙字の新しい職場となる東京音楽学校のことを書こうと思うんですが、
虚子と乙字の話などもそこで書けるんじゃないかと思ってます。

 2015_03_17




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