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七 碧梧桐との訣別(大正元年~四年)
 海紅堂不祥事件 その2

大正四年の俳壇だけでなく
当時の文壇でも話題にのぼることになったけど、
登場人物がイマイチその後の俳句史に輝くことがなかった人たちだからか
あまり知られていない
海紅堂不祥事件のその2です。

さて、俳誌「海紅」の五月十二日の句評会で
一体なにが起ったのか。
それは、
「鶯の曇りひく山山を焼く」という句について、
月並と断じた大須賀乙字に対して、
当時二十歳だった山口葉吉という人物が
その乙字に対して「生意気いうな」と食って掛かった、
というのが直接的な発端だったみたいです。
山口葉吉という人については、
「海紅」創刊その1の記事で
「試作」「第一作」の同人の山口葉吉
として、一度紹介しましたが、
まあ、つまり中塚一碧楼の側の人。
一碧楼が河東碧梧桐の門へ戻り、しかも機関誌の編集まで任されたということで
「試作」系の同人が、碧梧桐門に入ったということなんでしょうか。

以前から、
特に「試作」系の若い俳人たちから
乙字はその尊大な物言いが嫌われていて、
また、葉吉もすぐにカッとなる性格だったらしく、
この会以前にも
乙字に対して葉吉が食って掛かる場面があったらしい。
乙字の気持としては、
客分である「海紅」の会にわざわざ呼ばれて出向いた
というつもりなのに、
こういった葉吉のような無礼な態度
その物言い以前に、
それを許す碧梧桐に対して怒りを感じたわけです。
「こんな失礼な事をいう不良少年を同座させるならば
以後決して海紅にはかかわらない」
と言って玄関に立った乙字を、
後を追ってきた葉吉が、茶碗の糸底で殴って乙字の額を割った
というのがこの事件なのでした。

昭和四年の「俳諧雑誌」四月号の、
喜谷六花の談によれば
よし!不良少年の腕を見せてやろ
と立ち上がるなり茶碗をぶつけたんだとか。
事件の五日後に乙字が手紙で書いたところによれば
玄関まで行ったところで殴られた
ということで、微妙に違うような気もするけど、
事件五日後と事件十年以上後との記憶なので、
乙字の方が真実なのかな。
大正九年に書かれた松下紫人の文章によれば
圭不英君と共力して某君を抱きとめた事はまだ覺えて居る。
大勢の目が一せいに乙字君の顔の負傷部に注がれた、
冷たい光景が何となく凄ごかった

のだとか。
乙字の額からは血がぼたぼたと落ち、羽織や手首を血に染めた。
折からの雨の中、
紫人と碧梧桐の妻茂枝が付き添って病院を回ったのだけど
専門医でないとダメだといわれて、
乙字は二人と別れて人力車を呼び、
一人で桜木町の医者で手術を受けたということです。
別れるまでの間紫人は、訴えないで欲しいために、
逆に乙字の暴言を諌めたという。
何だろう、ひどくね?
って思うけど、それを素直に乙字への追悼文に書いているという
松下紫人という人も変わった人のような気がする。
乙字はそれを黙って聞いていて、けっきょく警察沙汰にもしなかったとか。
だからって、黙ってたわけでもないんですけどね。
とにかく、
この事件について、乙字は山口葉吉にではなく、
それをさせた碧梧桐に対して怒り心頭だったわけです。
もう、監督不行き届きとかじゃなくて
アンタがけしかけたんだろって感じみたい。
事件の翌日に、乙字宅に碧梧桐がやってきたんですが、
乙字はそれを拒否してます。
それが乙字と碧梧桐との完全な訣別となったわけです。

一碧楼は
この暴行を難詰する人もあろう。
しかし私はその原因を知っていたし、
当然の結果と思っている

と書いてます。
碧梧桐が当時この事件について
どういう風に考えていたかは分かりませんが、
栗田靖の『碧梧桐百句』によれば、
「海紅」創刊時、碧梧桐から鵜平への書簡で、
乙字には質疑応答か、俳論か位を押しつけようと思うがそれもなかなか難しい。
ともかく雑誌を売らなければという重大な社会問題があると、
なかなか強いことが言いにくい

と、乙字の扱いに苦慮してたんだけど、
そのうちに事件が起こって乙字の方から出て行った、
というようなことが書いてある。
よくわからないけど、不穏分子が取り除かれた安堵があったのかな。
ちなみに
乙字に不良少年呼ばわりされた山口葉吉氏、
実際のところ不良少年と呼ばれる前歴があった青年だという話です。

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 2015_02_24




七 碧梧桐との訣別(大正元年~四年)
 海紅堂不祥事件 その1

芥川龍之介が、土屋文明に「俳人はすごいことをやるよ」
と、言ったとかいう、
当時の文壇を騒がせたらしい事件。
それが海紅堂不祥事件。
公式にこういう名称があるわけではないみたいですが。
ともかく、それは大正四年のことでした。

最初に、その事件の前の話から。

「海紅」が創刊した三月、
かねてより郷里で療養していた大須賀乙字の妻千代が亡くなります。
この月には、この後書くことになると思いますが、
臼田亜浪の俳句誌「石楠」が乙字の協力のもと創刊されてます。
三月二十九日に千代が亡くなり、
翌月六日には東京へ戻った乙字ですが、
愛息子である精一はそのまま妻の里に残してます。
千代の父である宮内亀次郎が
毎日のように精一の様子を乙字に書き送ってくれていたらしいんですよ。
その手紙への乙字の返信によれば、
亜浪夫妻、小沢碧童、風見明成などが
色々と心配して世話してくれたということです。
四月の終り頃になって、やっと香典返しの作業が一段落し、
「人生と表現」に千代の遺稿として手紙を掲載することになった
という手紙も。
さて、
そのころ「海紅」では精力的に句評会が行われてました。
新しく船出した俳誌「海紅」のこと。
乙字にも会の案内が来てはいたんですが、
いつも何か用事があって行けなかったということです。
まあ、妻が亡くなって、その生活を立て直すには、
まだ短すぎる期間ですし。
しかし、五月十二日の句評会については、
是非出席してほしいと速達で案内が来たので、
さすがに乙字も出掛けることにします。
この会の当日のことですが、
『わが心の俳人伝』(河内静魚)には
その日、乙字は別の宴会場から直行したため酒が入っていた
とあります。
『大正俳壇史』(村山古郷)には
妻の亡くなったさびしさもあって、一杯傾けて来たのであろう
とあります。
どういう理由だったかは不明ですが、
とにかくその会に乙字が酒を飲んで参加したことは確か。
実際にその会に出席していた松下紫人が
乙字の死後発表した、乙字追悼文「其の夜」で
酒くさい氣配がするので、ふりかへると乙字君だった
と、その日の乙字との出会いの場面を振り返って書いてますし、
大正四年「海紅」六号で中塚一碧楼が
乙字は常より更に泥酔してきて」と、
喜谷六花は昭和四年の「俳諧雑誌」四月号の談話に
一番終りに乙字君はやつて來たと思ひますが、來た時はすでにかなり酔つぱらつてゐました
と語ってるのが載ってます。
まあ、とにかくその会で事件が起るわけですが、
とにかく乙字が酒を飲んできていたことだけは確かなんじゃないでしょうか。
ただ
その場にいて、後にそういう証言をしている紫人、一碧楼、六花は、
みんな碧梧桐&一碧楼派の人なので、
ものすごく乙字が酔っていたのかは判断がしにくいような。
碧童は、この日この会に出席してなかった模様。

へんなところで切りますが、
長くなったので、
事件そのものについては、次回。
ちなみに、
「海紅」の句評会で、酔っ払った乙字が無双
というような事件ではありません。
念のため。

 2015_02_22




七 碧梧桐との訣別(大正元年~四年)
 「海紅」創刊 その3

大須賀乙字と臼田亜浪が出会った頃、
乙字は喜谷六花と共に東京俳句会の幹事を引き受けています。
引き受けた、というより
どちらかと言えば、自ら買って出たという方が正しいのかも。
提唱者である河東碧梧桐や若い俳人たちだけでなく、
東京の古株の仲間たちの句にも新傾向句の影響が強くなっているのを危惧して、
これからはどんどん句会に出席し、選をし評をして、
それを正していかなければ
と考えての東京俳句会の幹事だったみたい。
九月に名和三幹竹に宛てて出した手紙に
「乙字死すれば俳句滅ぶ」という言葉を使って、
そんな感じのことを書いてます。
これは、傲岸不遜な発言という様な感じではなく、
行き過ぎた新傾向俳句の流れをなんとしても止めたい
という切なる思いから出た言葉。
まあそんな訳で、
乙字は大正三年から四年にかけて、
あえてさまざまな句会に顔を出し、
新傾向俳人たちと激しく意見を戦わせていたわけです。
で、そこに、
碧梧桐と和解した中塚一碧楼も参加するようになっていた、
と、こういうことですね。
って、もう随分前に書いたので、何がこういうことなのか
分かりにくいかもしれませんが、
亜浪と乙字の石楠社の第一回の句会に、
一碧楼も参加していたのは、なんでだろう、
という話からの、ずずっとした流れでした。

さて、
碧梧桐門の機関誌「海紅」の創刊は大正四年の三月。
その編集は、当時無職だった一碧楼に任されることになります。
これについて、やっぱり
一度碧梧桐に反旗を翻した者を、と反発する門人も多かったようですが、
碧梧桐はそのまま押し進めます。
この一碧楼の抜擢について、
乙字は一月十八日病床の妻千代に宛てて
一碧樓はこの編輯で月三十圓位の収入を得て食つて行けるやうにしてやるというのだ」と、
碧梧桐と二人で新雑誌について話した時のことを書いてて、
一碧楼について別段不満はなかったみたい。
でも自分の立場については
碧と僕と並び立つて雜誌を監督するならば圓滿に行くことなど話した。碧梧桐は皆之を承知した
とも書き送ってます。
それが二十日になって、
この碧梧桐門の機関誌に関して、
乙字と三井甲之は客員という立場でいた方がいいんじゃないか
と、十九日に小沢碧童がそう言っていたと
またまた妻に報告してます。
甲之にも相談しないとって書いてましたが、
二人でどういう結論になったのかは不明。
まあ、多分それで行こうってことになったんでしょうね。
ともかく、
乙字は「海紅」に対して客員的な立場で参加することになります。

この「海紅」創刊について、興味深い対談があります。
もともと、乙字情報をネットで漁っていた時に発見した記事なんですが、
「Art,自由律ヒッチ俳句」というサイトの
『「自由律俳句文学史」より 12』というもの。
そこに、
「1938年3月号の「海紅」に「碧梧桐追悼座談会」の速記録がある」
として、座談会の様子が紹介してあるんです。
これが面白かったので、
わたしも、元々の「海紅」の記事をあたってみました。
ちなみに
「海紅」にある記事は、正しくは「碧先生追慕座談會」というタイトルでした。

〔X〕「海紅」はどんな動機から創まつたんですか。
〔一碧楼〕今言つたやうに句會をやり、俳三昧をやつている内に機關誌があつてもいゝぢやないかといふ話になつて、一碧樓、お前編輯をやるかと言はれたのが始まりです。
〔碧童〕そりや僕等にも先生が言つた、「海紅」を一碧樓の仕事にしてやらうぢやないかッてネ。
〔鵜平〕その話は私にもあつた、一碧樓が東京へ來て居るが定つた職がない、そして
 冬日明かるけれ二人の骸子がころぶまゝ
なんて句を作つてる、一碧樓がこれぢや困るから、お前の壬子集を一碧樓に渡してやれと言はれた、壬子集は其頃無料で三百部も人に送つてゐた、だから其三百を土臺にしてやればいゝ、一碧樓の爲に犠牲になれと言ふので厭も應もなく承知したんですが、然し雜誌の名前を「海紅」にすると言ふから私は反對した、彼は謀叛人だからどうも永續きはせないと思ふ、先生と離れて行く時に「海紅」を持つて行くのは困るだらうがと言ふと先生は、その時は「海紅」を彼に渡してもいゝと言ふんだ。
〔一碧楼〕それは最初から、俺は一白で、君は五黄だから吃度喧嘩するに定つてるが、やれる所まで續けようと言はれて居ました。


しかし、塩谷鵜平という人は、
なんか不思議な存在だなあ。

 2015_02_17




七 碧梧桐との訣別(大正元年~四年)

 「海紅」創刊 その2


前回の続き。
一度は自分を大絶賛してくれた河東碧梧桐に反旗を翻し、
自分たちだけで、新しい俳句、詩の道を模索していたはずの
中塚一碧楼が、
再び碧梧桐や大須賀乙字と一緒だったのか。
ほぼ、『大正俳壇史』(村山古郷)から。

大正三年十一月、
碧梧桐宅である、通称海紅堂へ
突然、一碧楼が訪ねてきます。
ここで、玄関に出たのが、
たまたま海紅堂へ来ていた麻野微笑子。
慌てて奥の部屋の碧梧桐へ、一碧楼の来訪を告げるんですが、
ここできっぱり
碧梧桐は一碧楼に会う事を拒否。
今までの流れからすると、
碧梧桐は、わりと人間関係の機微に淡白というか、
来る者は拒まず去るものは追わず
という人のような気がしてましたが、
さすがに、手痛く反旗を翻されて四年、
なんの連絡もなかった男なので
すぐには受け入れがたったのかも知れません。
微笑子にしても、
すぐに碧梧桐の門へ戻ったとはいえ、
一度は一碧楼と共に碧梧桐に背を向けた過去があるので、
師にしつこくとりなすことも出来ず、
かといって、一碧楼を追い返すことも出来ず。
で、仕方なく、微笑子は一碧楼と一緒に海紅堂を後にするわけです。
食事をして、活動写真を見て、
現在の一碧楼の生活ぶりや句作のこと、
そんなことを色々と聞いた微笑子は、
まあ、とりあえず、もう一度先生と会って相談したほうがいい
という結論に至ります。

その頃の一碧楼の生活は、
その日その日を食べて行くのが精一杯の中で、
俳句を作っている、というような感じ。
若山牧水の「創刊」にも
賭博でもよい滅法勝つて女をアツと云はせたき夜かな 一碧楼
叱りつくれば女は荷物の如く蹲り秋夜詮なし 一碧楼
などの句が載ってるらしいです。
ちなみに、それらの句の署名は「直三」だとか。
しかし、どうにも壁に突き当たって動けない。
だんだんと碧梧桐が懐かしく慕われて来て……
というのが、思い切って訪ねてみたところのようです。
もともと俳句を詠んでいたわけではないらしいんですが、
この頃には、
妻たづ子も田村田鶴子の号で俳句を詠んでます。
妾(わたし)の悪事、世間(ひとびと)の擽り、けれど私の時雨かな 田鶴子
貧乏して逃げる男かはいく、林檎食ふ 田鶴子
玉の輿に乗りたいと思ふなまぬるき冬の宵 田鶴子

これまで、乙字の妻、井泉水の妻の句なども
ここに挙げてきましたが、
三人とも、ちょっと驚くぐらいドキッとする句だなあ。
のんびりした普通の奥さんの暮しをしていた人たちではないから、
かも知れません。

まあ、とにかく微笑子は、海紅堂にもどって、
碧梧桐に、一碧楼に会ってやってほしいと頼み込みます。
そして、碧梧桐と一碧楼は再会を果し、
二人は、また師弟関係を結びなおしたわけです。
まあ、
現在の貧困生活への同情もあったかも知れませんし、
母親からの仕送りで食べていると聞いて、
生活の自立も出来ずに何が芸術かと叱責もしたらしいですが。

あー、また大須賀乙字の話まで届かなかった。
次回で、そろそろ
「海紅」創刊まで行きたいです。

 2015_02_15




七 碧梧桐との訣別(大正元年~四年)
 「海紅」創刊 その1

城之崎で河東碧梧桐に激賞されながらも、
碧梧桐の選と添削に反発し
「試作」「第一作」などを作って
碧梧桐一門を離れた俳句活動をしていた中塚一碧楼ですが、
この頃再び大須賀乙字や碧梧桐の前に姿を出してるという。

一碧楼は大正元年に「第一作」一号を出して間もなく、
金銭的な事情もあって郷里の玉島に帰っていたとか。
ぶっちゃけ、遊び過ぎとか。
翌年一月に岡山の病院に入院することになったんですが、
そこで後に妻となるたづ子と出会い、
同年九月に二人は東京へ出奔した、と。
この時一碧楼に路銀を工面してくれたのは
岐阜の塩谷鵜平だったらしいです。

この人は、けっこうお金を持ってたみたいで、
碧梧桐が二度目の全国行脚の際、
まあ、この旅行自体は、京都の大谷句仏がお金を出してたんですが、
その送金が、句仏の事情で、一時遅れたことがあって、
その時、句仏の代りに碧梧桐にお金を出したのも塩谷鵜平だったとか。
このエピソードは、何で読んだんだったか、
はっきりは覚えてないけど、
多分『碧梧桐百句』(栗田靖)かなあ。
でも違ったらすいません。
確認できたら、コメント欄にでも付け加えておきますね。

まあ、それはそうとして、
ほぼ駆け落ちの様に東京へ出て来た一碧楼。
母親からの仕送りを頼みに、
たづ子と貧しい生活をしながらも、俳句の情熱は失ってないんです。
一碧楼とその仲間たちの同人誌「第一作」は
その頃にはもう七号を迎えていたとか。

さて、
その一碧楼と碧梧桐の仲を取り持ったのは、
「試作」創刊には加わったけどその後再び碧梧桐門に戻った
という経歴があった麻野微笑子でした。
微笑子は、
「試作」「第一作」の同人の山口葉吉という人物から、
一碧楼が東京に来ていることを聞いてて、
一碧楼を気にかけていたわけです。
この辺りのことは、
村山古郷の『大正俳壇史』に詳しく書かれてますね。
それはもうしっかりねっちり。
その再会の様子とか、その後の展開とか、
次回に続きます。

 2015_02_10




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