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六 妻千代について
 千代宛の手紙

今日、1月20日は、大須賀乙字の亡くなった日です。
乙字の忌、乙字忌、または寒雷忌と言います。
38歳でした。当時のように数え年でいえば、
年が明けて40歳になったばかりでした。


けふ来る時はかなしかつた。けれどもよくよく考へるに僕は僕の活動生命の源泉はお前と精一とにあるから、だからもつとお前を愛するばかりだ。お前が僕の心をよく理解してくれなくつてもかまはぬ。只、僕はあくまで愛してやる。愛するほかには僕はどうすることも出来ないのだから仕方がない。お前はきらつてもどうでもいい只、僕は疑はず一心に愛する。お前が僕のいふ事に十分信用しないならば、それは僕の愛が足りないからだらう。それだから僕は只一心に愛する。それより外に僕の生きる道はない。
(大正三年十一月二十三日付 千代宛)

僕は汽車の中で見るものがみなかなしかった。次のやうな句が出来た。
○葉落ち尽して友なし小鳥うづくまる
鳴きもしないで只一羽とまってゐる小鳥がかはいさうだった。
○溝落葉嗅いで親呼ぶ子犬かな
子犬の姿は見るにたへぬのであった。
○輪くづれの鳥落つと枯野ひた暮るる
枯野の景色は淋しいものだ。
○心一つに石握り来し枯野かな
一心にお前の病気のなほるを祈りつつ行く気持をよんだのだ。
○ひつひつと梢巻く風の冬日かな
かなしい心で景色を見たものだから、かういふ句ばかり出来た。

(同十一月二十三日付 千代宛)

僕はいそがしい思ひなどし、かうやつて真面目に勉強してゐるけれども愉快なことは少しもない只、湊に行く日を楽しみにしてゐる。けれども湊に行つてお前のそばに行くとお前がまた僕をいぢめるだらうとそんな気がする。お前はきつと又僕をいぢめるだらう何だか心細い。そんなことはないだらうか。お前の目に僕は愚物のやうに見えるだらうな、この鬼神をもとりひしぐやうな気象も一方にあるのだけれど。僕は文壇がいやになり俳壇などいよいよいやになつた。
(大正三年十二月四日付 千代宛)

あゝ風がふくふく。精坊はいま泣いてゐるだらうか、お前は今寝てゐるだらうか。たよりもきかず、かうしてをる僕は今机に向つて考へ込んでばかりゐた。(中略)お前ほんとにどうしたの、もしか何ぞ又腹立てゝをるのではあるまいか。もし腹立てゝゐるならそれはきつと身体の工合がわるいのではなからうか気にかゝる。何か気にくはぬ事あらばどんどんかいてよこしてくれ。お前、僕がどんなに便りを待つてをり便りがないと心配し元気がなく、何をするのもいやになり、かうがつかりしてゐたら病気になりはしまいかと思ふほどだよ。何でもありのまゝ思ふまゝに書いてよこしてくれ。
 精ちやんや、おとなしくしてお母ちゃんのいふ事をきくのですよ。お母ちやんのいふ事をきけばお父ちやんが迎へに行つてあげるよ。お母ちやんを疲れさしてはいけないよ。精ちやんおとなしくすればお父ちやんがいゝものを買つてあげますよ。精ちやんはけんくわするのではありませんよ。おとなしくするのですよ。
 僕の胸は嵐にもまるゝ林の梢
 巣を離れ来し雄鳥の
 安けくもなき心のさわぎ。
 子をかゝへたる雌鳥いづら
 弱き羽がひにぬくめ鳥
 そのふところをすりぬけて
 危く走る枝うつり
 風にとられむ足もとを
 あと追ひゆくか母鳥は。
 あらしの中は巣守りして
 声さへ立てずひそみをる
 其つま鳥を恋ひわたり
 もし鳴く声を聞かむかと
 耳たてをれど
 とうとうと吹き立つる嵐やまねば
 しづ心なくおのゝき居るかな。 ─二月四日夜─

(大正四年二月四日付 千代宛)

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 2015_01_20




六 妻千代について
 大正四年

大須賀乙字の最初の妻、千代について書いてます。

大正四年二月、千代の具合はいよいよ悪く、
乙字への返事を書くのも困難な程だったといいます。
二月十六日付の千代への手紙には
人間はたゞ愛情によってのみ生きるものだ。愛情がなければ生きてゐられぬ。
千代や精一や、お前たち二人をはなれて僕は生きてゐられると想うか。
お前手紙をかいておくれ
」とあって、
とにかく離れて暮す病気の妻と幼い息子に対する思いが、
隠すことなく綴られてます。

この年、同じ二月に、千代の実家である宮内家で、
持ち船の遭難事故という、家を揺るがす大きな事件が起こってるんですが、
それについて、乙字が二十三日付で見舞を出してます。
で、
それに対する千代の返事はこうでした。
私は実は大分悪いんです。寝続けで便所に行く事も出来ません。
あなたも用意をしてゐて下さい


甲之兄。この手紙を見て驚いて私は湊へまゐりました。
私が行くといくらか見なほした様子でしたが、実はもう此時いけなかつたのです。
それから春休みまでの一ヶ月は病と苦闘を続けながら、
私の行くのを待つて居たのです

これは、乙字が千代の死後、親友の三井甲之へあてた手紙の一部。
大正四年中に、「人生と表現」誌に、千代の手紙が掲載されることになって、
それについての手紙です。

その手紙にあるとおり、
乙字が千代に会いに行けたのは、職場である学校の長期休暇の春休み、
三月のことでした。
その翌日に、容体が急変し、その夜千代は亡くなります。
乙字、両親、兄弟に見守られながら。
二十七歳だったといいます。

本来であれば、乙字の両親の眠る仙台に葬られるはずだったんですが、
千代の生前の望みでもあり、
知らない土地より、肉親や知人がお参りしやすい故郷の方がいいだろう
という、乙字の思いもあって、
茨城県の湊に埋葬されました。
戒名は
包珠院智慧月光大姉。
乙字が付けた戒名だそうです。

遺された長男精一は、まだ幼く、
母の死の意味が分かっておらず、
お母さんはいつもいつも眠っていて、もう帰って来ない
と無邪気に言ったのだとか。
そして、
普段は会えない父に会えて、
二人で外出できることを喜んだといいます。
それが母の墓へだとしても。

初七日を修したのち、精一を宮内家に預けたまま、
四月六日に乙字は帰京します。
弔問に来た小沢碧童は、
乙字の顔を一目見るなり泣き出したという話です。
この頃、もう随分河東碧梧桐一派とは溝が深かったはずですが、
それとこれとは別の話なんでしょうね。
この頃は、臼田亜浪との付き合いも始まっていて、
しばらく亜浪の妻が色々と気を使ってくれたらしいです。

病める身にうれしき初夏の旦かな 千代
吾子と只二人して夕顔暮るる見る 千代
いとし子を見捨てて吾れも逝くか秋 千代
これらの句は、千代の残したもの。

 2015_01_18



六 妻千代について
 大正三年

大正三年四月、大須賀乙字の弟敏が亡くなります。
明治四十四年の六月に結婚し、同じ年に発病した、
と、以前に書いた事がある、敏です。
大正二年の秋に、乙字は
  病弟を思ふ二句
 蠹払ひし疲れ紛れしか秋晴に
 画境なき汝れ風萩に魂揺らん

という句を作ってます。

敏は、発病してから仙台の実家で家族と共に療養してたんですが、
大正元年に父も亡くなって、敏も亡くなってしまったので、
仙台の大須賀家には、二十四歳になる敏の妻と三歳のその娘が残されます。
どういう話でかは分かりませんが、
二人はそのままこの大須賀家に暮すことになります。
母屋を人に貸して、
若い未亡人と幼い娘は離れに暮すことで生計の道を立てるんですが、
家長は東京に暮す乙字で、
家の維持費や、その他色々なこと、
何かと母子は乙字を頼ってたらしいです。

一方、前年の五月から東京で病気と戦っていた乙字の妻千代ですが、
大正三年六月、とうとう湊の実家へ帰すことになります。
帰すって言っても離縁するという意味ではありません。
文字通り実家に帰って、そこで療養するという意味です。
長男精一も、母と一緒に湊で暮らすことになります。

八月、乙字は仙台で父母、弟の墓参りを済ませた後、月山登山をします。
廣い平原をてらす景色をながめて妻子のことを思ふ感慨無量也。
明日はいよいよ月山登りだ

と千代に旅信を送り、
帰りは直接湊の妻を見舞ってます。

このころ御飯がたべられますから、すぐ肥るでせう。ほんとうにこの頃は月がようござんすわね、だけど私なるべく月を見ないようにしていますの、何だか引入られるやうに悲しくなりますのよ。
私がねたまに起るものですから、精一は大喜びです

人生と表現ありがたうございます。早速月山登山だけ見ました。随分誤植がありますのね。『山上一帯は凝ったやうな綿雲に覆はれてゐやす』とありますね、私おかしくて、思はず噴き出しました。あんな真面目な所へ膝栗毛か何かのやうにゐやすなんて、ゐますの間違ひですけれどね、本当におかしうござんしたわ
精一はね毎日毎日四ち谷へ行きたい行きたいお父ちやんどうして来ないのって申しますの
これらは、千代が乙字に書き送った手紙の一部。
文中の「四ち谷」は、
この年の九月に、乙字が下渋谷から四谷区右京町に転居しているので、
そこの事だと思われます。
乙字もまた、湊の千代に多くの手紙を書き送ってて、
これらの手紙は、『乙字書簡集』にも掲載されてますが、
千代からの手紙については、
『大須賀乙字伝』の巻末付録「乙字に送つた病妻千代の手紙」
で読むことが出来ます。

 2015_01_13



六 妻千代について
 大正二年

大須賀乙字の最初の妻千代は、
結婚後に医者から見立てられたとおり、
人より肺が弱かったらしい。
大正二年の四月に、小康を得て東京に戻って来たんですが、
五月には、また発病してます。
当然ですが、
明治四十四年に産まれた長男の精一も、千代と共に移動します。
ということで、この頃、幼い精一の世話は、
乙字がけっこう手伝っていたみたい。
昼間は教師としての仕事、
帰ってからは病む千代の看病と、息子精一の世話。
汽車や兵隊の絵を描いてやったり、寝かしつけたり、
夜中は精一のおしっこの世話に起きたり。
その時間を縫って、俳論を書く日々だったみたいです。
この間虚子の句評を或雜誌へ談話記事に話しやり候へ共随分思い切って惡口をいひやりあとでチト氣になり申候
一度感心すれば日夕諷誦感嘆やまず、さる代りには氣に入らぬ時は之を嫌ふのみならず、ニクゝテニクゝテたまらぬなり、クヤシクテクヤシクテたまらぬなり、果てはボロボロ涙を落す。其結果筆を執れば峻烈に罵い倒去るを常とす。アアこれ小生の惡癖ノミ
など安斎桜磈子宛の手紙で赤裸々に綴ってます。

ちなみに、「乙字句集」にある大正二年の句は二十句ほど。
評論や俳論は二十七ほど書いているようです。
この評論が、自身でも思い当るほどに激しくなってたみたい。
この頃を「泥の中を藻掻き行く」ような生活だと、
岐阜の塩谷鵜平に書き送ってもいます。
また、
この頃の千代の日記があるんですが
この頃は頗る神経過敏になって、烏の鳴くのも気になる。この日記を書きながらも遠からず形見となるのぢゃないかと思って見る。然し決して死にたくはない。せめて精一が十八九歳までは生きたいと思ふ
と、こちらも胸に詰るものがあります。

 2015_01_11




六 妻千代について
 明治四十五年


明治四十五年、
この年は八月から大正と改元されました。
その八月に、大須賀乙字の父筠軒が亡くなります。
前年の十一月に、友人への手紙で
「仙台の老父も不加減で、いつ帰省の必要があるかも分からない」
とか書き送っているので、
その頃から父の具合が悪かったみたい。

さて、河内静魚著の「わが心の俳人伝」に、
こんな文章が載っていて驚きます。
妻千代はこの年双子を死産する。この死産が原因で病が一層重くなる。乙字はこの双子を葬った芝二本榎の黄梅院にしばしば足を向けている。情に厚く涙もろい人だった
この年というのは、父の死去した明治四十五年(大正元年)のこと。
この、千代が双子を死産という話ですが、
他のどこにも出てこないんですよね。
村山古郷の「大須賀乙字伝」にもないし、
「乙字書簡集」にも、それらしい事が書かれた手紙はない。
わりと最近になって判明したことなんでしょうか。
とりあえず「乙字書簡集」で分かるのは
大正三年になって、乙字が
二本榎黄梅院と申すに双児ありしを葬り候児の墓を訪ふ
という前書で
 児の墓にいつまでもゐよ時雨
という句を臼田亜浪宛の手紙に書き送っている、ということだけかなぁ。

そしてこの大正元年の冬、
千代は肺患をわずらってしまいます。
前述の死産に加え、長男精一の育児、夫乙字の来客や句会の世話、
仙台での義父の看病と葬儀、
その後の乙字の家督相続のあれこれで、
肉体的にも精神的にも負担が大きかったのかもしれません。
十二月二十七日、宮城の安斎桜磈子に宛てて
小生無異、但し荊妻右肺をいため痰に交りて吐血、俄の臥蓐にて看護婦をつけきりの有樣、豚兒乳を戀ひて夜半小生の懷をさぐり號泣不止ほとゝゝ閉口致候仙臺の愚弟も長きこと臥蓐、よくよく本年は小生に取りて凶歳に候
と、
乙字はこういう手紙を出してます。

病む妻と乳児を抱えて教員の仕事をするには無理があったようで、
結局、乙字は妻と子を一旦湊へ返して療養させることにしたようです。
千代と精一を湊へやったのが何月の話なのか、
その辺りはちょっと分からないんですが、
大正二年の四月には、小康を得た千代が帰京してます。
その数ヶ月の間のどこかで、
乙字が三越で布製の動物絵本を買って、精一に送ってるんですが、
それについて書いてある手紙が、
残念ながら大正二年某月某日となってるんで、
はっきりいつのことか分かりません。

 2015_01_06




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