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五 新傾向の終焉(明治四十四年~
 「ホトトギス」雑詠欄復活

さて、
ここでまた「ホトトギス」がその頃
どんな感じだったかを
見てみたい。

以前の記事で
明治四十一年八月に「日盛会」が行われ、
その最終日に
高浜虚子が
「小説に専念するためにしばらく俳句を中止する」宣言を
したと書きました。
「国民新聞」俳句欄の選者も、虚子から松根東洋城にバトンタッチ。

では、明治四十四年頃はどうだったか。
実はこの頃、「ホトトギス」は経営難に苦しんでたんだとか。
文芸誌として小説にぐぐっと舵を切った「ホトトギス」ですが、
夏目漱石が「我輩は猫である」「坊ちゃん」などを寄稿してたころは
好調だったみたい。
でも
その漱石が新聞社に入社して、今までのように寄稿してくれなくなると
読者が減って来て、
最盛時の三分の一強に売り上げが落ち込んだんだとか。
河東碧梧桐選の「日本俳句」の投句数と
奇しくも似たような減少率……
なんて、
そもそもの分母の数が違うんで。
で、この売り上げの減少は
虚子の生活にも「ホトトギス」の存続にも掛かる大問題なわけ。

そこで虚子は「ホトトギス」再興をかけて、紙面を刷新することに。
坂本四方太や内藤鳴雪などとの相談を経て、
「ホトトギス」は「ホトトギス」同人の寄稿をメインとする
という方向に定めたらしいです。

実は、虚子としては、
この際俳句を全廃したい
という方向で考えてたらしいんですが、
鳴雪の大反対や、
各地の「ホトトギス」同人から俳句復活の強い願いがあって、
断念したんだとか。
内藤鳴雪がいなければ、
今の「ホトトギス」、
というよりは、現在の俳句状況はなかったかも。

まあ、そんなこんなで
明治四十五年「ホトトギス」五月号に
虚子選の雑詠吟募集の告知が小さく掲載されます。
同号の「消息」欄で、
虚子が書いている文章がけっこうあけすけで、
「取り敢へず雑吟の選でも思ひ立ちたる儀に候。」
とのこと。

この頃の「ホトトギス」は、読者が減少、投句数も減少、
選者もだんだん不熱心になって、
原稿が届かないこともあったとか。
そんな現状を打破しようと始まった雑詠吟募集。
これが、なかなか熱い歓迎を受けます。
しかし、紙面の割合からしたら、ホントちょっぴりで、
第一回は、入選句二十四句。
一番最後の「消息」欄の終りの余白を埋める程度だったらしいです。

この「ホトトギス」の俳句復活について、
大須賀乙字は、俳論「現俳壇の人々」の中で、
小説に行き詰って俳句に戻って来たものである
と見てます。
また、
『大須賀乙字伝』では
石井露月が
「虚子は商略として俳句に復活したのである」と言ったとあります。
ともあれ、「ホトトギス」俳句復活の巻でした。

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 2014_12_28




五 新傾向の終焉(明治四十四年~
  碧梧桐の帰京

河東碧梧桐の全国俳句行脚が終わったのは、
明治四十四年七月十三日。
第一次と第二次をあわせると
これが実に1304日。
この旅の旅費は、
その多くが浄土真宗の東本願寺の二十三世、大谷句仏から出たみたい。
何で見かけたエピソードだったかなぁ。
旅の途中で、句仏からの送金が急に途絶えて、
あわてて岐阜の塩谷鵜平にお金を出してもらったことがあったとか。
まあ、たまたま句仏が忙しかったか何かで
送金できなかっただけだったとか…

新傾向俳句が勃興し、
碧梧桐の「日本俳句」が黄金期を迎え
混迷し、
そして低迷期に差し掛かってました。
いや、もう入ってたのか。
碧梧桐門下は分裂しかけてて、
「日本俳句」への投句も、最盛期の三分の一ぐらいになってたとか。

旅を終えて東京に帰って、
待ってるものが碧梧桐門下のごたごたかぁ
と、
実は碧梧桐自身ちょっとブルーだったらしいです。
七月八日に、塩谷鵜平に宛てた手紙に
「(略)荊妻の談によれば乙字碧童対井泉不喚の衝突は案外猛烈──尤も井泉不喚の方にてはヨラズサワラズなるべきも乙字派はプンプン怒つてをる由、小生之を主人の留守中に起つた姑小姑と嫁下女などの衝突─飛んだお家騒動と笑ふ ソンナ事もあれば東京同人の出迎は中止を要求せり(略)」
と書いてるとか。
これは栗田靖「碧梧桐百句」(翰林書房)に載ってた話。

碧梧桐の帰京歓迎俳句大会が行われたのは、
九月三日。
一ヶ月半ほど間が空いてるのが不思議ですが、
何か理由があったんでしょうね。
この会の出席者は五十四名。「層雲」主催というものだったらしいです。
「層雲」八月号に、この帰京歓迎俳句大会の予告が出されて、
幹事は「層雲」の荻原井泉水の他、
碧梧桐の格さん助さん的存在の小沢碧童、喜谷六花、
碧梧桐門古参の伊藤観魚、
そのほか、細谷不句、宇佐美不喚楼、松本金鶏城といった在京俳人と、
広田寒山。
寒山以外は、第二次全国行脚の見送りメンバーでもありますね。
ここに「大須賀乙字」の名前はありません。
俳句大会そのものにも、乙字は不参加だったようです。

また、同じ九月に、子規十周忌を、
帰京したばかりの碧梧桐が主催してるんですが、
こちらも乙字は欠席だったみたい。

碧梧桐や「層雲」との関係性もあったとは思うんですが、
もう一つ。
この九月、大須賀乙字のプライベートが
忙しかったということもあるかも知れません。

七月から、妻千代が出産のために里帰りしてたんですが、
九月が出産予定の月。
このころの乙字の手紙を見ても、
その話ばっかりです。
つまり、茨城に里帰りしてる千代への手紙ばっかり。
九月十六日に、待望の長男精一が生まれて、
仕事のやりくりをして、やっと赤ん坊に対面できたのが、九月末。

ちなみに、明治四十四年の乙字の家庭環境は、
三月に妊娠中の千代が病気になり、
六月に弟の敏の結婚、
九月に長男誕生
十一月に、その敏の発病、
十二月に末の弟の炳の結婚
と、割と慌ただしかったようです。

 2014_12_23




五 新傾向の終焉(明治四十四年~
 「試作」「朱鞘」創刊

さて、「層雲」「アカネ」の他に、
この明治四十四年には、二つの雑誌が創刊されました。
もちろん、
河東碧梧桐門下の関係のみですが。

荻原井泉水の「層雲」が創刊されて、
それを追うように、三井甲之&大須賀乙字が「アカネ」を復刊。
そして、その翌月六月に、
中塚一碧楼と彼の仲間が「試作」を創刊します。
また、久米三汀、つまり久米正雄のことですが、
彼と彼の仲間が「朱鞘」を創刊したのも、同じ六月。

まずは「試作」について。
一碧楼らが「自選俳句」を創刊した、
というのが、前年である明治四十三年の十一月。
この「自選俳句」の第二号が出たのが、明治四十四年になってからなんですが、
実はその頃、一碧楼は岡山ではなくて、東京に出てました。
早稲田大学入学の為ですね。数え年で二十五歳。
で、新たに「試作」として再スタートしたと。
四六倍判四ページという、ささやかな体裁だけど、
希望は大きく
我等青年の細かい情緒を表現する方法として、新しい句を試みた第一歩の叫びである
と宣言。
八百庄は酔ひ死にし葉柳垂れて 一碧楼
「若さ」彫りし像の破壊者避暑に来て 微笑子
などの句が載ったらしいです。

この微笑子という人、麻野微笑子というのがフルネームで、
後に、
再び碧梧桐と一碧楼の糸を結んだ立役者でもあるらしいんですが、
とりあえずこの頃は、「試作」の人。
結構行動派だったみたいで、
「試作」第一号を持って、ホトトギス発行所に高浜虚子を訪ねていきます。
それについて触れたのが随分前のことで、
忘れられてるかも知れませんが、
この頃虚子は、俳句への興味をほとんど失ってました。
しかも新傾向俳句は嫌っていた。
でも
「この傾向は面白い、大いにやりたまえ」
と言ったとか。
「しかし俳句という名を冠するのはどうかと思う」
と続けたらしいですが。
とりあえず、「試作」の若者の意気を大いに上げたエピソードだったんじゃないかと
思われます。

では
「朱鞘」という雑誌はどういうものだったのか。
こちらは、前述したとおり、久米三汀らが作ったもの。
当時まだ一高生だったみたいです、久米くん。
っても、数え年二十一歳、俳句は始めてまだ二三年程度だったとか。
大須賀乙字の母校でもある安積中学に通っていて、
中学四年の時に、たまたま仙台に帰省していた乙字を知り、
その関連で碧梧桐の新傾向俳句を知り、俳句に熱中したんだとか。
明治四十三年に上京して、一高に入学、
「日本俳句」「東京俳句会」でぐぐっと頭角を現わして、
俳壇の麒麟児!
だったらしいですよ。
在京の碧梧桐門の輝ける期待の星ってとこでしょうか。
この三汀と共に「朱鞘」を起こしたのが、内田易川、泉天郎、岡田葵雨城ら。
彼らも「日本俳句」でぐんぐん育った在京の新進作家。
今も汐浴の客あるうらら松曲る 三汀
雛に朱毛氈門外は休め畑 天郎
競馬場の松風や花菜黄に 易川
鳥影や木の芽街道時計台 葵雨城
というような句を作ってたらしいです。

○我等同人は或る場合碧梧桐に盲従するの至当ならむを認む。
○自己の誤謬に出発して謙遜なる態度によりて進まんとす。
○信頼すべき選者によりて得たる価値ある経験を偽るを要せず。

これが「朱鞘」の三か条。
同じ新傾向俳句から出て来た若手作家たちですが、
スタンスが全く違うっていうのが面白いです。

 2014_12_21




五 新傾向の終焉(明治四十四年~
 「層雲」創刊

明治四十四年は、「アカネ」復刊の他、
河東碧梧桐門から、三つの俳誌が分かれ出た年でした。
その一つが、
荻原井泉水の「層雲」。
今も続く俳句結社の始まりなわけですね。

碧梧桐の、例の玉島俳三昧の直前、
安芸竹島に碧梧桐を訪ねた井泉水ですが、
これは俳誌発行についての相談でした。
この時、碧梧桐は「続一日一信」で、
井泉水はかねて我々に機関誌がないことを言っていたが、
今度、自分の資力を費やして、これを設けたいと言っていた
と、書いてます。
が、
実際のところは、井泉水自体も、どういう方向の俳誌を作るか、
まだはっきりと心が決ってなかったとか。
とりあえず、師である碧梧桐に、
いまひとつ曖昧な返事ではあるけれど、
俳誌を創刊するのに異論はないこと、
俳誌の名前は「層雲」がいいんじゃないかというのを貰って
東京へ戻って来たわけです。
同人の機関誌としてやるか、
あるいは井泉水の個人の雑誌とするか、
というのを、井泉水は小沢碧童に相談します。
碧童は、今度は喜谷六花と相談して、
同人の雑誌にすると、一人二人と抜けた時に挫折しやすいから、
井泉水ひとりでやる、というのがいいんじゃない?
と返事をしたらしいです。
さて、
ここで井泉水からも、碧童からも、
何にも事前の相談が無かったのが大須賀乙字。
このころ、すでに、井泉水とも、碧童、六花とも、
微妙に目指す俳句が違うことが表面化していたので、
仕方ないといえば仕方ないようにも思えますが、
この
自分には相談がなかった!
っていうのが、
乙字にとってショックだったみたい。
井泉水なんかと一緒にやらねぇよ
と、
子供か!
というような決意をしたりしてましたが、
師である碧梧桐から
同人の機関誌だから、尽力して欲しいと頼まれたので、
まあ、しかたなく、ちょっとはやるわ…
と、幾分トーンダウンした手紙を
宮城の友人、安斎桜磈子に宛てて出してます。

もともと大学時代からの親友だった、
というのがあっての、
この疎遠ということで、
ちょっと複雑な心理があったんでしょうね。
結局、三度ほど、課題吟の選句を引き受けた乙字ですが、
それ以外の寄稿は一切せず、
四度目はなかったということです。

「層雲」は、同人による課題吟(乙字も参加したやつ)
の他に、雑詠吟も募集しはじめます。
これの選者は井泉水。
さて、今度はこれが碧梧桐門下の人たちの癇に障ったと。
「層雲」という雑誌は、碧梧桐門の機関誌だろ、
井泉水の独断専行はなはだしい、
ということですね。
さすがに、碧梧桐自身は、
これは井泉水が独力で発行運営する雑誌なんだからね
と庇ってたらしいんですが、
ねえ。
これについては乙字はもうなにも言ってない模様。
そんなことより、最初に相談受けてて、個人誌にすべしって言った
碧童と六花がもっとしっかりフォローしなよって感じがします。

このあたりのことは、後に、
宇佐美不喚楼は
井泉水君が先づ独力で『層雲』を出す頃から、段々に皆の心が離れて行つた
といい、
松本金鶏城も
この雑誌のあらはれた頃からして碧梧桐の下に集つた俳人の分裂がそろそろ始まつたと云うてよい
と言ってるらしいです。

ちなみに「層雲」自体は、好評を博して、経営は上手く行ってたらしいですよ。

 2014_12_16




五 新傾向の終焉(明治四十四年~
 「アカネ」復刊

河東碧梧桐の選を嫌った中塚一碧楼率いる玉島衆が、
自分たちだけで同人誌を出すらしい
という噂ですが、
明治四十三年十一月、それに先駆けてパンフレット「自選俳句」を出してます。

「自信ある作の前に於て選者の存在は全然無意義也」
と宣言して、
選者制を排した作品集となってた模様。
創刊号では、
中塚響也の、雨の花野の句が、
その原形と思われる
雨の花野を戻り隣家に長居せり 響也
の形で出されているところからも、
反選者制、反添削の意味が強く込められていたんじゃないでしょうか。
他に、
赤児見て出づ門や赫っと秋晴れて 一碧楼
秋晴の新職業に有りつかん 濛雨王
孕めるがふと悲し霧の厨口 太々夫
などの句が掲載されていたとか。
「自選俳句」を直接チェック出来たわけではないので、
ここに挙げた濛雨王、太々夫という人物が誰か、
フルネームは何かすら分からなくてすいません。
大須賀乙字は、
勿論これらの句が彼の目指す俳句とは方向が全然違うわけですが、
「孕めるが」の句について
「この官能的感傷より新しい俳句の生れたことは奇蹟である」
と、評価したとのことです。

その乙字ですが、
「孕めるが」の句を評価したとはいえ、
新傾向俳句批判、碧梧桐批判は、いよいよ苛烈になっていきます。
明治四十四年二月の「蝸牛」誌上に、
「碧梧桐の新句作態度論について」
で、
真っ向から無中心論に反対し、
季語の感じが一句に纏う「中心点」のある句を力説。
翌三月の同誌では
「俳句の立場を理解せよ」
として、
小説家の田山花袋が無中心論に賛成した論について、
俳句と小説を同一視した論で、且つ自然主義作家として自家弁護に過ぎない
と、バッサリ。

その翌月、荻原井泉水が「層雲」を創刊。
これに刺激を受けたんでしょうか、
五月に、休刊中だった「アカネ」を三井甲之と共に復刊させます。
「アカネ」休刊については、明治四十二年に、
「アララギ」との合流の可能性もあったらしんですが、
伊藤左千夫や斎藤茂吉の反対に合って流れたとか。
復刊した「アカネ」は新聞形式だったとか。
復刊号に「最近俳壇の変遷」
七月号の「新傾向の迷夢より醒めよ」
など立て続けに、新傾向俳句非難の文をここに載せます。
「アカネ」って
なんの雑誌だったんだろうなぁと
ふと思ったり。

ま、
この頃は「ホトトギス」も、四月に創刊したばかりの「層雲」も、
俳句以外の文芸を盛んに載せていたので、
「アカネ」も短歌オンリーの文芸誌ではなくて
なんら不思議ではないのかも知れません。

乙字は、その他にも
「誤られたる個性発揮」
「俳壇の最新傾向と新川柳」
「余情と背景及蛇影」
「人為的技巧化せる新傾向」
「否定は光明の先駆也」
「俳壇の無目的迷惑論」
「国語を滅ぼす傾向」
「感激なき俳句作例」
「余が新傾向を弁護せば」
などを「アカネ」「蝸牛」などにほぼ毎月発表します。
ちなみに、これら全部、
明治四十四年発表のもの。
この年の乙字の俳句が、
「乙字句集」にたった十九句しか残ってないのも
なんとなくうなづける俳論の数です。

ちなみに、
現在でも比較的読みやすい(入手方法的に)
「余情と背景及蛇影」を見てみると、
そこまで激しく新傾向俳句自体を糾弾しているという
感じではないです。
いくつか例句を無記名であげて、
新傾向が陥りがちな欠点を示したものというような論です。
作者は作句の過程を全部知っているのだから、
当然、句から様々な事が連想される。
だから、自分の句がよく思えるけど、
他者の目からすると、作者が当然と思う連想には
至らないので、一度自作を突き放してみることが大切。
みたいなことが書いてあります。
もう一つついでですが、
「俳壇の無目的迷惑論」
の「迷惑」というのは、迷い惑えるという意味で使ってるらしいです。
迷惑をかけている、というのではないみたい。

ちょっと面白いなと思うのは、
「アカネ」だけじゃなくて「アララギ」にも寄稿してること。
乙字は三井甲之の親友でほぼ「アカネ」側の人でしたが、
同時に斎藤茂吉とも友人関係にあったんで、
その流れでの寄稿だったんでしょうか。

また、新傾向攻撃のための論だけでなく、
この年八月「アカネ」に、
「人事は季題にすべからず」
という俳論を発表してます。
のちに発表する
「季感象徴論」や「俳壇復古論」の
序章ともいえる論文ですね。
人事葛藤が人生観に達せざる断片的叙述に終れば、描写が巧妙でもつまらない
天然の季題は変わるときがないけれど、人事季題は年中行事のすたれると同時にすたれた。また新季題がいくらも産まれた
と、まあこんな感じです。
ちょっとおやっと思うのは、
これらの季題は、天然に対するごとき大観にわれらを導かぬゆえに、人為的に季語と定めても、季語たる効果はないのである
という文。
明治末のこのころ、
「季題」というのが、今でいう「季語」、
「一句の中に入れておかないといけない季節のお題」のこと。
んじゃ、この文章の中の「季語」、
これは、「季節感を持った言葉」というような意味だと思われます。
「季語」という言葉を最初に使い出したのが、
大須賀乙字であるというのは、聞いたことがあったけど、
もうこの頃から使ってたわけですね。


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