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ジュンパ・ラヒリ「その名にちなんで」
新潮社

青年だった父が列車事故で九死に一生を得た時
手にしていた本にちなんで「ゴーゴリ」と名付けられた少年。
ふるさとインドから遠く離れたアメリカに暮らす若い夫婦は、
初めて授かった子供の名付けを
インドの祖母に頼んでいたのだが、
その祖母からの手紙は何故か一向に夫婦の元へ届かず、
愛称のつもりでつけた「ゴーゴリ」という名前が
少年の正式な名前になってしまったのだった。

ロシアの文豪ニコライ・ゴーゴリに由来する名前を持った少年は、
成長するにつれて自分の名前が恥ずかしくてたまらない。
ニコライ・ゴーゴリが
あたかもゴーゴリ・ガングルーと同一であるかのように感じられ、
少年は恥ずかしくてたまらないのだ。

インドからアメリカへ渡ってきた若い夫婦と
アメリカで生まれたその息子。
本作はこの二世代の物語です。
おだやかな筆致で
丁寧に描き出されるインド移民の生活のディティールの美しさ。
これはもう溜息もの。
派手な事件とか大きな分岐点があるわけではなくて、
とにかく丁寧にやさしくゴーゴリの世界が紡がれていくんですよね。
けして饒舌な印象はないけれど、
異国に生きるものの姿が
ささやかなものたちを通して雄弁に描かれた、
読んでいてとても肌触りのいい物語でした。
(2005年4月)

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 2015_10_30




ジュンパ・ラヒリ「停電の夜に」
新潮社

ああ~、とってもよかったです~。面白かった。
作者ラヒリはロンドン生まれのアメリカ在住の移民二世。
両親はカルカッタ出身のベンガル人だそうです。
欧米で暮らすインド人たちを中心にした
9つの短編からなる短編集で、
デビュー短編集でありながら
ピュリッツァー賞、O・ヘンリー賞、ヘミングウェイ賞などを受賞
というのもうなずける質のいい作品でした。

日本版の表題作「停電の夜に」の、
待ち望んでいた子供の死産をきっかけに
上手く行かなくなってしまった若い夫婦の物語もよかったし、
インドのことはよく分らない移民二世の
幼い少女の目を通して描かれた「ピルザダさんが食事に来たころ」、
若い移民男性を描いた「三度目で最後の大陸」なども
お気に入りになってしまいました。
インドを舞台にした「ビビ・ハルダーの治療」も
読後感がとても良くて好きですし。
そう、読後感がいいんですよね~。
結局ほとんどの作品に言えることなんですが、
とても読後感がいいんです。
おせじにも豊かではない生活水準の家庭を描いてても、
おだやかであたたかさを感じさせるの。
移民文学(ってそんなカテゴリーがあるかどうか知らないけど)
とかって気負い込んでない、自然さを感じました。

それにしても、このラヒリって人はきれい。
マジでオリエンタル美人ですね。
(2002年3月5日)

 2015_10_29




M・K・インディラ「幼い未亡人」
三一書房

これは、インドの未亡人についての物語。
九歳で結婚、
その後すぐに夫がコブラに噛まれて死亡したため、
幼い未亡人になったパニヤマ。
その彼女の一生を淡々と追いながら、
インドの日常生活、慣習、カーストなどについて書かれてます。

うーん、
にして、どひゃ~でした。(この感じ、分かるでしょうか)
現在はさておき、
かつてはインド限らず、
女性が虐げられてた時代がさまざまな国であったんだろうけど、
特にこのインドの未亡人に対する処置の凄さにはびっくり。
まず、
夫が死んだのはどんな死因だろうが妻の所為であると考えられ、
不吉な存在だとされ、
「マーディー」なる存在になることを強要されるんだとか。
マーディーは、一日一度の食事で早朝から深夜まで働き、
剃髪して、白いサリー以外身につけることを許されない存在。
勿論再婚なんてありえなくて、
死ぬまで働くだけの日陰の存在とされるんだって。
ちなみに、未亡人でありながら妊娠すると、
その未亡人も生まれた子供もカースト外の存在、不可触民になり、
その存在は村の所有物とされたとか。

訳者あとがきに書いてあったこともショッキングでしたね。
未亡人になった女性の身の振り方はまだあって、
それは亡き夫の亡骸と共に一緒に焼かれる「未亡人殉死」とも言うべき
「サティー」ってもの。
この恐ろしい慣習、
一応1829年に法律で禁止されたそうですが、
完全に禁止することが出来ず、
なんと1987年(現代ですよ~)に18歳の未亡人がサティーをしたんだとか。
しかもしかも、美談としてその村は巡礼地となったらしいんですが、
実は、その未亡人は自らの意思でそれを行ったのではなく、
四千人の観衆の中、麻薬を大量に飲まされて強制されて焼かれたのだとか……。
ううっ、怖過ぎます。
(2002年3月25日)

 2015_09_15




J・M・クッツェー「恥辱」
早川書房

52歳の大学教授、
かつては現代文学の教授だったが、
大学側の大規模な合理化計画のおかげで、
コミュニケーション学部の准教授というのがディヴッド・ラウリーである。
離婚歴がある独身で、その性生活については娼婦を買う事で満足している。

そのディヴィッドが大学を追われることになったのは、
淫行、
というよりセクハラ、
いや性的暴行と付きまとい。
少なくとも彼を訴えたメラニー側ではそういうことだった。

名誉も地位も失ったディヴィッドは、
農場に暮らしている娘ルーシーの元に身を寄せることにしたが……。

うーん、なんだかどういっていいのかわからない物語でした。
南アフリカのアパルトヘイト撤廃後の不穏な情勢を背景に、
ということで、
ぼんやりと、そうかも……って思ったのが、
黒人が多く暮らしているらしい地域に
農場を構えて暮らす白人のルーシーが見知らぬ男たちにレイプされるところ。
黒人の中で暮らす守る者のいない白人女性ってやっぱり厳しいんだろうな、
と。

主人公のディヴィッドは、
なんていうか、頭でっかちな学者バカなんだろうなって思いました。
生きることにどっか真剣味がないから、
どんなにそれらしいことを言っても誰にも伝わらないんだよね。
自分の言動や自分の気持についても、
やっぱり真剣味が感じられないのね。
それは、もしかしたら、
自分の過去の言動と他人がそれについてどう感じたかを
真剣に真面目に取り組むことで、
彼が甘受したつもりになってる運命、
現在の状況が「恥辱」になってしまう怖さからかも。
他人に対しても自分に対しても誠実ではないよね。
こまったおやじだけど、
きっと彼は死ぬまでそうなんでしょうね。

対して、
彼の娘ルーシーの受けた恥辱への取り組み方、
それは現代の日本に生きる私には全く共感できないけれど、
うっすらとわかる部分もあるかな。
いつか、どこかで読んだ昭和初期ぐらいの日本の物語でも、
やっぱりルーシーのような女性が出てきました。
レイプをされた、という意味ではないけれど、
彼女もやっぱり生まれた土地ではない場所で恥辱にまみれて暮らしてた。

普通の女性ならば受け入れ難い恥辱にまみれても、
土地に根を張りたいと臨んでたと思うんですよ。
ここで父親の勧めに従って土地を手放して、
外国へ行くこと。
それを受け入れたら平穏な暮らしが出来るかもしれないけれど、
彼女に残るのはかつてレイプされて逃げてきたという事実が残るだけ。
でも、
その土地に残って生きつづけることで、
何かそれを乗り越えたような気持になることができるかも……
出来ないかもしれないけれど。

ルーシーは「自分の土地」に執着しているわけではないんですよね。
ここで今後人々に受け入れられて生活するためならば、
形式的にかつて「犬」と呼ばれた黒人の
その妾(犬)と思われても、
土地を売ってもかまわない。
うん、やっぱり共感は出来ない感覚ではあります。

そうそう、
ディヴィッドがルーシーのレイプについてとても傷ついてたけど、
物語の序盤で、拒むメラニーを押し倒してコトを行うんですよね。
で、それはレイプじゃないけど、不本意な事だとか思ってるの。
ディヴィッドらしいといえばらしいです。はい。

この物語はとにかく悲惨で泣きたくなるぐらい滑稽なんだけど、
なんだろな~、
読後漂うものが何故か辛い感じでもないんですよね。
不思議不思議。
(2005年4月30日)

 2015_08_17




J・M・クッツェー「エリザベス・コステロ」
早川書房

うへぇって思わず言いそうになってしまうような、
そして時折にやにや笑いをもらしてしまうような、
そんな作品でした。
つまり、面白かったってことですが。

エリザベス・コステロは老境に入った女性作家です。
そう、
「動物のいのち」のヒロインである、あの女流作家。
ジョイスの「ユリシーズ」の中の登場人物マリオン・ブルームを主役にした小説
「エクルズ通りの家」で文学界に峻烈な旋風をもたらしたのが十数年前。
その後も著作を発表しているけれども、
「エクルズ通りの家」を越える作品は出ていないようです。

さて本書は、
そのエリザベス・コステロが各地で様々な発言をして物議をかもしたり、
腹を立てたり考え込んだりというものを、
7つの章に分けて描いてあります。
このエリザベス・コステロが
クッツェーの皮肉が効いた、自身の歪んだ鏡なのかピエロなのか、
やっぱり気になるところです。

第一章の「リアリズム」では、
合衆国では大きめの文学賞「ストウ文学賞」を受け取るために
ペンシルバニアのあるカレッジへ向います。
お供は息子のジョン。
どうやら彼は「動物のいのち」で登場したノーラとは離婚している模様。
ふむ、
それってエリザベスと何らかの関係があるんじゃないの?
とかんぐってしまいますね。
まあ、それはどうでもいいんですが。
受賞式のスピーチでカフカの小説を引き合いに出した、
(私にとっては)曖昧模糊とした文学論を語り、
聴衆からどん引きの一歩手前を引き当ててしまいます。

「アフリカの小説」では、
優雅な船旅を楽しむ隠居老人たちのディナーパーティで
講演をすることを引き受けます。
しかし、その船には彼女の旧知の人物、
ナイジェリアの作家エグドゥが載っていたのでした。
どうやらエリザベスはエグドゥに対してある種の苦々しい思いを抱いてるようで、
彼の講演を聞きながら心の中に浮かぶ様々な反発は、
そこから発してるのではないかと思える矛盾や混乱があるみたい。
「アフリカの人文学」では、
アフリカに渡って人道活動をしてきた
実姉ブランチの許を訪ねることになったエリザベス。
ところが、
このブランチって方がまたエリザベスに負けず劣らず……。

「悪の問題」では、
アムステルダムで開かれる「悪の問題」についての
文学会議のスピーチに招かれたエリザベス。
ところが、
他の招待作家の名前の一つを見て青くなってしまいます。
ヒトラーと暗殺者たちを描いた作品とそれを書いた作家を
(実名入りで)手ひどく批判するエリザベスのスピーチ原稿、
その当の作家ポール・ウェストがいたのでした。
あわてて原稿を手直しにかかるエリザベスですが、
「ポール・ウェストはObscene(いやらしい)な本を書き、
見せてはいけないものを見せた」
このくだりだけは削るわけにはいかないと思ってしまうのです。

この章のはじめに、「動物のいのち」の後日談が書かれています。ふふ。

しかし、
この作品が単なる皮肉なユーモアかと思えば、
「門前にて」で、また別の見方が出来ると思います。
己の信ずることについて書きあらわさねば門をくぐることが出来ない
という不条理な状態の中で
自己を模索するエリザベスの姿は、
もはや毒舌が痛々しく空回りするピエロ役の老作家ではないように思えました。

最後の章「追伸」は、
17世紀の、フランシスコ・ベーコンに書き送ったある婦人の書簡です。

さて、訳者あとがきによると、
コステロ・シリーズは他にも出版されているとか。
またエリザベスに会える日を楽しみにしてます。
(2005年読了日不明)

 2015_08_16




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