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三 新傾向の発見(明治四十年~四十二年)
 「日本俳句鈔」

河東碧梧桐が旅立った翌月、
碧梧桐選の「日本俳句鈔」第一集が刊行されます。
上下巻で
「続春夏秋冬」にそのままつづく
明治四十年から四十二年までの二年間の「日本俳句」を中心に選んだもの。
「日本俳句鈔」というぐらいですから、
前に出したものより、ぐぐっと「日本俳句」寄りなわけです。
そして
大須賀乙字の句に関していえば、
「続春夏秋冬」では百十五句掲載されていたんですが、
こちらではぐっと少なくなります。
選集の規模が全四巻から全二巻になっていることも
まあ、
理由としてはあるんでしょうが、
それ以上に
乙字自身があまり句を作ってなかったんだと思われます。
以前にも書いた通り、
大学卒業を目指して俳句を控えてたり、
その後の就職とか、
あと、
この辺りから俳論が多くなってますから。


柔和なる甲之の面差より激しく見え乙字の優しき言葉記憶す 土屋文明

土屋文明が乙字と出会ったのも
この頃らしいです。
伊藤左千夫の家に身を寄せていた文明が、
左千夫の使いで三井甲之を訪ねてったら
そこへ
乙字もやってきたんだとか。

甲之が文明を乙字に紹介し、
これから働きながら勉強することになっている
というと
乙字は文明の働き口についてあれこれとアドバイスをして、
なんか親切な人だって
文明は思ったらしいです。
多分ですが、
アドバイスを求められて色々提案した
んではなくて、
聞かれもしないのに
色々言ったんじゃないかなぁ。
そんな人だったらしいです。
乙字は。
 
ちなみに
上記の歌は
『大須賀乙字伝』の序歌として掲載された、
(「アララギ」昭和三十九年十月号所載)
とある五首のうちの一つ。

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 2014_10_26



三 新傾向の発見(明治四十年~四十二年)
 碧梧桐第二次全国俳句行脚

まあとにかく、この頃、
河東碧梧桐の門下は、非常に勢いがあったみたい。
そして、大須賀乙字は碧梧桐を師として崇め奉り、
碧梧桐は、今一番勢いがある弟子として
可愛がってた感じ。
明治四十一年の暮、大阪から青木月斗が上京してきて、
碧梧桐宅で句会を開いてます。
翌四十二年の一月には、名古屋から伊藤観魚が上京して句会。
当時、乙字が手紙で
「句会又句会、俳論益々盛」
と、書いてますが、そんな感じだったんでしょうね。
「新傾向」という方向を得て、意気軒昂。
みたいな。
ちなみに
青木月斗という人は、子規門の俳人で、
大阪俳壇の草分け的存在として、松瀬青々と並ぶ存在だったとか。
碧梧桐とは関係が深くて、
月斗の妹が、碧梧桐の奥さんだったりします。
伊藤観魚は、碧梧桐門の人ですが、
実は乙字が否定するより早く、新傾向を見限った人でもあります。

この上京の折が、乙字と月斗の初対面で、

乙字は快活によく話しては白い齒を出して笑つた、乙字は碧梧桐にものを訊かれるとニコニコしていつも頭をかきながら恐縮して答へをして居た

と、その第一印象を月斗が書き残してます。

句作後の俳論はいつも乙字、井泉水二氏に由て賑はされた。庵主は大抵乙字氏に左袒する傾きがあつた

と中村泰山という人は当時のことを書き残してます。
庵主っていうのは、碧梧桐のこと。
書き残して、と書きましたが、
泰山という人も、実は大正十年に三十六歳でこの世を去ってます。

さて、
明治四十二年四月二十四日、
碧梧桐は一時中断していた全国俳句行脚に再び出発します。
この時は、八人ぐらいが送別してます。
前回の俳句行脚が、
東京から千葉、茨城、栃木、福島、山形から北海道。
そこから、日本海側を長岡まで南下したところで終わってるんですが、
今回は、
中部、近畿、山陰、九州、沖縄、四国、京阪、南紀、岐阜、京都と
ホントに全国をぐるっと回るわけです。
この旅も、「続一日一信」として連載され、
後に「続三千里」としてまとめられました。
と、言っても、
実はそこまで長く新傾向俳句の熱狂が持たなかった所為か、
「続三千里」の出版については、上巻のみで、
その後はなかったんだとか。
それからずーっと後になって、
講談社から上中下巻が出版されました。

まあ、本になるころには下火になったとはいえ、
とにかく、この旅は、
どこでも非常に熱い歓迎を受けたみたいです。
実はこの新しい俳句の方向性を示した「新傾向俳句」は
このころ、東京よりも地方で受けたんだとか。

なんとなくわかる気がするんですよね。
ただ、この新しい俳句が受けたんじゃなくて、
実際にそのトップである碧梧桐が、
はるばるこーんな遠くまで来てくれた!
って
そりゃ印象も強くなるし、好感持つだろ
みたいな。
しかも、ライバルはこの頃いないしね。
 2014_10_21



三 新傾向の発見(明治四十年~四十二年)
 碧梧桐「新傾向大要」

明治四十一年六月、
河東碧梧桐は、「新傾向大要」を発表します。
感想の具体的描写、
ある事に対する刹那の感想の美を捉えて、作者特有の主観を叙する、
題材の個性、
などを強調し、
「現状を打破する新姿勢は常に『真に返れ』である」
としたわけです。

こうやって抜き出すと、
現代で俳句をしてる者から見て、
なんらとっぴなことを書いてるわけじゃないっすね。

碧梧桐は、その後も
翌年の四十二年、二月、三月と立て続けに俳論を発表して、

実感を主とし、印象を重んずる、即ち、自己の経験の上に吟詠の想を構ふる努力は、自然に我等の生活に接近して来る

と、自論を補強するわけです。

当時、
俳句の世界じゃなくて、
文壇の方で一歩先んじて「自然主義文学」のムーブメントが起こってました。
明治30年代末ぐらいから、
フランスのゾラによる自然主義の影響を受けて、
日本独自に発展したものと思われるんですが、
経験的事実に裏打ちされる客観描写
だったものが、なんだかいろいろ転がって、
人間の汚いところに美があるん
ってな風潮で、
結局、「私小説」というものに行き着くワケです。

女弟子に去られた男が、彼女の使用していた夜着に顔をうずめて匂いを嗅ぎ、
涙するという描写は、読者、さらに文壇に衝撃を与えた。

と、Wikiにある田山花袋の「蒲団」なる小説が、
日本の自然主義文学の中でも有名だったみたい。

で、碧梧桐の提唱した「新傾向俳句」も、
この自然主義文学の影響を受けたものと言われてます。

言われてみれば、
もうしばらく後に登場してくる中塚一碧楼の初期の句とか、
この頃の碧梧桐の「新傾向俳句」や自然主義文学の方向性に
合致してるかもーと
思われます。

大須賀乙字について書いてるはずなのに
今回
ほとんど触れてないということに気付いて
我ながらびっくり。
明治四十二年、一月五日の東京日日新聞で
「在来の季題趣味を破り、
刹那的感想に依立した印象派風の俳句に新生命のあることを十分に認めるのである」
と新傾向を押し進める碧梧桐に同調した論を書いてます。

 2014_10_19




三 新傾向の発見(明治四十年~四十二年)
大学卒業 その二

明治四十一年の春、
二月十三日から三月十四日まで俳三昧が行われた、
ということなんですが、
大須賀乙字はこの俳三昧に一度しか顔を出してないんです。
さすがに大学留年は痛かったみたいで、
卒業を目指して忙しくしてたみたいです。

前回で書いた通り、
母の諌めを留意しつつ、
どうしても俳句がやめられなかった乙字ですが、
さすがに、留年決定の四十一年の春の俳三昧は出てないと。

そして、この年の七月、
ようやく乙字は卒業にこぎつけます。
28歳、卒業論文は「俳諧論」。主査の教授は芳賀矢一。
同じく留年していた荻原井泉水も、この年に卒業しました。
ちなみに、この春の俳三昧は、
河東碧梧桐、喜谷六花、小沢碧童らの他、
戸沢百花羞、その弟の戸沢撲天鵬、石川桐芽、
宇佐美不喚楼、伊藤観魚、細谷不句
などが参加した賑やかなものだったらしいんですが、
井泉水がここにいたのかどうかは不明。

さて、
この年の九月の新学期から、
駒込吉祥寺にあった曹洞宗第一中学林の教職につきます。

同じ年、乙字は「俳句調子論」など、多くの俳論を書いてます。
新傾向についての論も多かったみたい。
また、「月並論」「『俳諧散心』を評す」などを書いて、
段々と俳論家としての存在感を出してきた頃かと思われます。

この年の十一月には、碓氷・妙義山で遊んで
  屏風岩
岩面曇れば過ぎし時雨かな 大須賀乙字
  動岩
紅葉折る響を雲に思ふかな 大須賀乙字

などの句を詠んでます。

 一方「アカネ」の発行に携わっていた三井甲之ですが、
創刊後半年ほど経った七、八月の頃から、
恩師である伊藤左千夫の小説や短歌について
苛烈な非難攻撃を公然とするようになっていきます。

とうとう伊藤左千夫は十月に
「アララギ」を発行して「アカネ」から離れることになったとか。

 2014_10_14



三 新傾向の発見(明治四十年~四十二年)
 大学卒業 その一

話は一年と少し前に遡りますが、
明治三十九年十一月、全国俳句行脚中河東碧梧桐は、
仙台で、大須賀乙字の実家へ立ち寄って一泊してます。
そこで乙字の両親と、学業についての話題が出たのか
あるいは全然でなかったのか。
とにかく、
碧梧桐が一泊してった直後に、
乙字の元に母から手紙がとどきます。
それは、しばらく俳句を中止して勉強しなさいよと
そういったものだったみたい。

正直、正岡子規も、高浜虚子も、もちろん碧梧桐も
大学を卒業してません。
そういう人たちを見てたからか、
乙字自身も、実はそこまで大学に関して重要視はしてなかったみたい。
でも、
郷里の母の諌めにはきちんと耳を傾けて、
これからしばらく俳句は中止します。
と、旅先の碧梧桐に書き送って宣言するわけです。
碧梧桐も
貴兄が句作休止の件尤々々 早く卒業した方がよかコト也
と、返事を返してます。

そんなやりとりをしながら、
結局碧梧桐の留守中も、
喜谷六花や小沢碧童と春の俳三昧とかやっちゃって、
会場が六花の梅林寺だったときは
自分の下宿から一里も離れてるのに
通ってったとか。
一里っていったら約四キロぐらい?
なんかもう遠いし!
近くに引っ越そうかなとか言っちゃうぐらい、
全然句作を休止する雰囲気じゃなかったみたい。

まあ、そんな感じで結局留年となったわけですが。

ちなみに、碧梧桐と仙台と勉学。
これ
割と密接な関係があったりします。

京都の第三高等中学校
文学熱あがる
在学一年

退学して上京、正岡子規んちにころがりこむ
イマイチぱっとしない
復学すっか

がーん!戻ろうにも学制が変わって第三高等中学がないわ。

仙台の第二高等学校
うーん、やっぱりイロイロ無理
在学三ヶ月

退学して上京、子規んちにころがりこむ

というようなことを、高浜虚子と共にしたみたい。
このあたりについて、碧梧桐本人ではなくて、
このころほぼ同じように動いていた虚子が
「子規居士と余」
に書いていて、
なかなか面白かったです。
さすがに一度は小説をこころざし、
というか、執筆当時がその頃だっただけあって、
なかなか文章がスムーズ。
「青空文庫」にあるので興味ある方は是非。

 2014_10_12




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