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二 東京帝国大学時代(明治三十七年~四十一年)

 当時の「ホトトギス」派の動向

さて、長期旅行へ出た碧梧桐の代りに
「日本俳句」選者となったはいいけど、
なんだか妙に割を食ったような形になった高浜虚子ですが、
当時の虚子と「ホトトギス」について、
少し書いておきます。

と、言っても
「ホトトギス」や高浜虚子については、
わたしはほぼ素人(虚子素人とかって変な表現になりますが)
なので、
書いた事が間違っていたら
是非ご指摘頂きたいところです。

「ホトトギス」では、明治三十八年から、
夏目漱石の「我輩は猫である」を連載して好評だったみたいですが、
一方俳句においては、いまひとつだったみたい。
というか、
虚子派俳句としての活躍は、
「国民新聞」虚子選俳句欄がメインだったみたい。
その頃の主力は
松根東洋城、高田蝶衣、岡本癖三酔、中野三允など。
多くが、虚子門というよりは子規門の人、という感じですかね。
蝶衣だけが飛びぬけて若い人という印象。

現・ホトトギスのウェブサイトに、
第一巻からの目次集というステキ情報があるんですが、
それを見ても、
やっぱり当時の「ホトトギス」は
読み物がメインだったようで、
本の後から三分の一ぐらいからようやく俳句の記事になるって号が多いですね。

明治三十九年に、虚子は、というのか虚子門では、
碧梧桐派の「俳三昧」に対抗するように
「俳諧散心」というのを始めます。

「三昧」も「散心」も仏教用語で、
意味合いとしては真逆にあたる言葉なんだそうです。
虚子派としては、「俳三昧」に対抗心バチバチというところでしょうか。

このあたりについて、
「高浜虚子の100句を読む」
で、坊城俊樹氏もそんなことを書いてるので、
対抗心はあった、ということで。

桐一葉日当りながら落ちにけり 虚子

この句は、その「俳諧散心」で出された句なんだとか。
しかし、どうもノらなかったのか、
もともと長期で行うつもりのない企画だったのか、
一年に満たずに終ってしまった試みだったようです。

で、
明治四十一年八月、
続・俳句散心とも言える
「日盛会」が
丸一ヶ月続けられたみたい。

まだ、碧梧桐門の動向について、
この時期まで書き進んでないんですが、
この年は、
碧梧桐の「新傾向俳句」が勃興した年なんですね。

この「日盛会」には、当時新進俳人だった飯田蛇笏なども参加してたようです。

凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり 虚子

という有名句も、この折に出されたものなんだとか。

お!とうとう「ホトトギス」が盛り上ってきたー!
かと思いきや
なんとその会の最終日、
虚子は、
小説に専念するためにしばらく俳句を中止する
という衝撃の宣言をしちゃうんです。

この年の十月からは、「国民新聞」俳句欄の選も松根東洋城に変わってしまいます。

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 2014_09_19



二 東京帝国大学時代(明治三十七年~四十一年)

 三題集

明治三十九年八月六日、河東碧梧桐は、全国俳句行脚に出発します。
前回書いた通り、この旅にはスポンサーがついていて、
それが大谷句仏なわけです。
碧梧桐は、毎日旅日記というか紀行文を書いて、
それが「日本新聞」に「一日一信」として連載されます。
これを纏めたものが、「三千里」。

旅立つ碧梧桐を見送ったのは、大須賀乙字、小沢碧童、喜谷六花、伊藤観魚の四人。
東京両国でバンザイでお見送り~
かと思いきや、
みんなそろって総武本線で千葉の稲毛まで行って、そこで一泊。
稲毛海岸でアサリを掘ったり、蟹に挟まれたり、
宿の座敷にやどかりを持ち込んで這わせてみたりと楽しくすごしたみたいです。
若いなー。
そう、みんな若いんだよね。碧梧桐を含めて。

夏の雲長途の明日を思ふかな 乙字

これは乙字の送別の句。

海楼の涼しさつひの別れかな 碧梧桐

こちらは碧梧桐の留別の句。

さて、碧梧桐の旅行中、残った乙字たちは、俳三昧も出来ないし、「日本新聞」の「日本俳句」に投句しても、碧梧桐が不在なので選者が代っているし…
ということで、「三題集」なるものを始めます。
これは、
題を三つ出して、それぞれ十句ずつ作る
というもの。
それを幹事が清記して一冊にまとめ、参加者に順番に回覧して選をする。
互選の結果最高点を取った者が、賞品としてその巻をもらえる。
というシステム。
われらが三羽烏の他に、宇佐美不喚楼(不喚洞、不喚ともいうみたい)、
松本金鶏城、荻原井泉水、広江八重桜、
安斎桜磈子(おうかいし)などが参加してたようです。
回覧するっていっても、八重桜は出雲、桜磈子は東北と、
ずいぶん離れたところから参加してるわけですから、
今は多分どこどこで引っかかってるんじゃないか、
とか、乙字書簡の中でもそういう文章が残ってます。

この三題集について
東海大学文学部の伊藤一郎氏の論文
『小澤碧童日記(明治三十九年十一月から四十年三月)試読』
を読ませてもらいましたが、
面白かったです。

「日本俳句」の選が代っている、と書きましたが、
碧梧桐の代役に立った人、
これが高浜虚子でした。

しかし、投句者の多くが碧梧桐門下と言えるわけですから、
あまり評判はよくなかったみたい。
さらに
明治三十九年十二月に「日本新聞社員連袂退社事件」なるものが起こり、
「日本新聞」そのものが休刊。「日本俳句」も消滅の憂目にあってしまいます。
虚子も踏んだりけったりですよね。

翌四十年に雑誌「日本及日本人」に「日本俳句」が復活することになり、
はるばる旅先から碧梧桐がこれの選にあたることになります。
「一日一信」もここに連載されました。

明治四十年は、乙字が帝国大学を卒業するハズの年でした。
が、まんまと留年。
前年の十一月ごろ、郷里の母から、
しばらく俳句をやめて勉学に励むように
との訓戒があったにもかかわらず、
この結果でした。
ちなみに、同期の荻原井泉水もこの年の卒業を逃しております。

 2014_09_16



二 東京帝国大学時代(明治三十七年~四十一年)

 俳三昧

一年時 その二で触れましたが、河東碧梧桐らの行った「俳三昧」は、
なかなかハードな俳句鍛錬会だったみたい。
またしつこく金田一京助氏の文章からエピソードを借りますが、
それはホントにしんどかったらしく、

『何の因果だらうとまづ悲鳴を挙げられたが本当に、僕もつくづく今日はさう思つちやつた』
(「俳句研究」昭和十二年八月号『大須賀乙字の想ひ出』)

と、下宿にやって来た大須賀乙字がそう語ったという…。
まず悲鳴をあげた人物は、小沢碧童だったとのこと。
最初は、碧梧桐と碧童の二人、その後乙字が参加し、
そのうち兵役から帰って来た喜谷六花も加わっての四人。
これが基本の俳三昧のメンバーでした。
小沢碧童は、乙字と同い年で、魚河岸の若旦那。
喜谷六花は、台東区にある梅林寺の住職で、四つほど乙字より年長。
乙字、碧童、六花は、碧門の三羽烏と呼ばれる古参弟子となるわけです。
のちのちこの俳三昧はもうちょっとメンバーが増えるんですが、
当時はこのぐらい。しかし鬼気迫る鍛錬会で、
時には、碧梧桐の奥さんに買いに行かせたパンをかじりながら、
ということもあったみたい。

このエピソードも金田一が書き残してることで、
海紅堂の句会に、京都から大谷句仏が参加した折の話。
大谷句仏という人は、真宗大谷派の第二十三世の法王。
そんなど偉いお方とも、身分を忘れて句会に同席できるって話の中で、
ただ一人、同じお坊さん同士で、その身分をナシには出来なかった六花が、
句仏選の一枚を手に取る時には、一度席を立って手を洗ってからだった
ってな話を(多分乙字から)聞いて、
金田一は、ユカシイ話だと思ったそうです。
この句仏参加の句会について、金田一はそれが俳三昧の折だと書いてますが、
多分金田一の勘違いだと思われます。
高浜虚子の「五百句」に

「明治三十九年五月三十日。大谷句仏北海道巡錫の途次来訪を機とし、
碧梧桐庵小集。会者、鳴雪、句仏、六花、碧梧桐、乙字、碧童、松濱」

と、あるのが、
その金田一が漏れ聞いたエピソードの舞台だったんじゃないかな。
ちなみに、この大谷句仏という人物は、
この年から始まった、碧梧桐の全国俳句行脚の大スポンサー。
旅費だけじゃなくて、長く主不在になる海紅堂のお留守番役へのお小遣いまで
大谷句仏が出してくれたとか。

 2014_09_15



二 東京帝国大学時代(明治三十七年~四十一年)
 一年時 その四

乙字と仲が良かったといえば、三井甲之もその一人。
俳句と短歌と道は違うけど、とてもウマが合って
終生の友だったみたい。
この甲之の乙字についての第一印象は
大学を着物姿で闊歩する、なんだか威張った感じの奴
みたいなイマイチ良いものではなかったみたいですが、
まあ
話をしてみたら違った
みたいな感じでしょうか。

乙字は、その舌鋒鋭い批判の文章と、自論に関する頑なな態度、
句会の講評などでの言い過ぎぐらいの発言などからか、
当時、反感を持つ人も少なくなった。
でも、親しく付き合った人達からは、
少なくともその人格は高く評価されてます。
親切で、他人のための苦労をいとわない、
心の温かい大らかで素直な人だったとか。
曲げられないのは俳句についてだけだったみたい。

その、大らかな所とか、非常に人好きするタイプだったみたいで、
俳句の関係者以外に高評価だったみたい。
入学して最初の正月、
つまり入学して四ヶ月ほどしかたってないということになりますが、
担当教授の芳賀矢一教授のお宅に、国文科の学生で年始の挨拶に行った時に、
乙字は大失態をやらかしちゃいます。
教授に酒をすすめられて、つい酔っ払うほどいただいちゃって
教授やら奥様やらに「ねえ君!」「君!」とかやっちゃって
同席してた先輩や同級生をハラハラさせたあげくに
帰り際、玄関で倒れて、お正月の梅の盆栽をめちゃくちゃにしちゃったんだとか。
人力車に乗せられて下宿に帰ったのはいいけど、
翌日になって、被ってた制帽がないってことで、
平身低頭しながら、昨日のお詫びがてら芳賀教授のお宅に帽子を取りに行くと、
ちゃんと帽子をかぶせてお返ししましたよという返事。
そうだ、人力車の上で楽しく振り回して、投げてしまったんだったと
頭を書いておいとましたんだとか。
そんな乙字に対して、芳賀教授は怒るどころか
逆に非常に可愛がったみたい。
卒業後も何かと芳賀教授が尽力してくれたらしいです。
ちなみに、この正月エピソードも、金田一が書き残したもの。
金田一さんマジ感謝。


 2014_09_10



二 東京帝国大学時代(明治三十七年~四十一年)
 一年時 その三

一高俳句会というのは、もともとは松根東洋城らが作った俳句会らしいんですが、
その後消えてたか消えかけてたかしてたものを、
明治三十六年に荻原井泉水や柴浅茅が復活させたものだそうです。
後で触れますが、井泉水と乙字は仲が良かったので、
その縁で出席するようになったんじゃないかと思われます。
ちなみに、井泉水らが復活させた一高俳句会には、
虚子と碧梧桐も出席してたんですが、俳句上の意見の相違から
しょっちゅう議論が沸騰したらしです。
大家同士の議論が目の前で繰り広げられるわけですから
同席してる一高メンバーも熱心に聞くわけです。
でも、なんとなく気まずくなってか
二人ともこの俳句会にはだんだん来なくなっちゃったんだとか。
これが乙字参加前の話なのか後の話なのかは不明。
乙字書簡集に、この年の書簡があればもっと詳しく分かったかも知れないけど、
明治三十八年からスタートで、しかも三十八年は一通しか載ってないんですよね。

この一高俳句会に乙字が顔を出すきっかけになった(と、わたしが考える)
荻原井泉水という人。
のちに「層雲」という雑誌を刊行して無季自由律俳句を進めた人ですね。
種田山頭火とか尾崎放哉の師匠としての方が有名なのかな。
余談になりますが、
私の手元にある本に載っている、この人の結婚式の写真を見ると、
美形なんですよね。
東京生まれ東京育ちでスマートでって雰囲気で乙字本にも書いてあるけど、
見た目からもうそれっぽい。
井泉水は乙字の三歳年下になりますが、東京帝国大学の同期。
三井甲之、金田一京助も同期ですが、それぞれ乙字の二歳下、一歳下になります。
年齢では。
井泉水は本名が荻原幾太郎で、一高時代は俳号を荻原愛桜と名乗ってました。
イニシャルを漢字に直したものですね。
これも金田一京助の書いてることなんですが、
入学当初、同じ言語学に入学してきた井泉水に、
「君は荻原愛桜生ではありませんか」
と、金田一が声を掛けたんだとか。
その理由が、
中学一年の時に、雑誌小国民へ記事を投稿した少年があって、
それが麻布中学一年の荻原愛桜生という名で、
その、眉目清秀な面影の写真の顔を
突如思い出したから。
青年時代も美形だったけど、少年時代もさぞ美形だったんでしょうね。
これをきっかけに二人は仲良くなったみたい。

乙字と井泉水も、大学時代は特に仲が良くて、ほぼ毎日会って、下宿へ行ったり、碧梧桐宅へ行ったりと親密に交流してました。
大学でもよく一緒にいるところを目撃したと金田一が書いてます。
 2014_09_06




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