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九 「石楠」後半(大正六年~七年)
 月並研究会 その2

さて、
いきなり前回の続きですが、
大正六年六月五日付けの高浜虚子の幽霊画について。
これについては『俳画入門』(保育社カラーブックス 山口誓子・直原玉青共著)
に、まず、大体の入手経緯が書いてあります。
まあ、入手したご本人がその経緯を書いてるわけです。
あ、直原玉青の方ね、ご本人って。
それによると、虚子が亡くなって間もない頃に、
京都のある書画店でこの幽霊画の軸を発見したのだとか。
で、これを購入して、家で掛けていたら、
知人がこの幽霊画に関することが書いてあるといって
昭和十一年六月号の「ホトトギス」を持ってきてくれた。
そこに掲載されていた座談会で、この幽霊画について話題にのぼった
ということみたい。
それによると、
其時分は先生は大変酒を召し上って居られた。其時、乙字さんが先生の俳句をヒドク悪く批評したのです。……その時先生は絵を描かれた。石塔の蔭から幽霊が手を出して居るのです
その絵は石塔にもなって居らない幽霊になっても居らないので今一つ描いてください
と、誰かがその絵についてダメ出し(?)したところ、
島田青峰という人物が、自分が頂いていくって
持って帰ったものだとか。
まあ、そういうことが「ホトトギス」の座談会で語られてたと
『俳画入門』にありました。
島田氏は自分で欲しがったくせに、手放したんかいと
突っ込まざるを得ませんが。
で、この本には、
最終的に虚子の息子である高浜年尾にみてもらって、
箱書きを書いてもらったとあります。
ちなみに
父の画としてはじめてのものと云えると思う。
私はその時傍らに在って見てゐた。私は中学五年生の時であった。年尾識

という文らしいです。

で、ですね、
その後、
1961年の「ホトトギス」の中に
真下喜太郎「高浜虚子と大須賀乙字」
という記事があるのを発見しました。
真下という人は、
虚子の長女と結婚した人で、「ホトトギス」同人でもあった人。
この人のところに、ある時画家の直原玉青から手紙が来て、
虚子の幽霊画を入手したんだけど珍しい品じゃないかと思うんで
見て欲しい
というか、書き写したものを送ります
この絵の背景わかりませんか?
みたいな事が書いてあったと。
ところが、真下喜太郎は、忙しかったりして、
この手紙の返事を書かないでいたら、
そのうち、また玉青から手紙が来て、
絵の背景は分かりました
島田青峰という人について教えてください
って言うんで、
今度はちゃんと教えた。
みたいな事が書いてありました。
この文章自体はそこから、
乙字による虚子の俳句への攻撃についての云々が続いて、
この幽霊画についてはあまり書かれてないんだけど、
わたしてきには面白かったです。
しれっと最初の手紙を無視したこととか
書くんだなぁって。
yurei2.jpg

まあ、話は月並研究会にもどります。
こんなことがあったにも関わらず、
八月六日、再び乙字は月並研究会に招待されます。
たまたま来たので寄ってけじゃなくて。
この時乙字は山形から上京していた大江瑞光を伴っていったみたい。
あとで
虚子の句を月並と申す所以を説明しました。虚子と小生との問答で終つて了ひました九月のホトゝギスに出る事でせう
と亜浪に書き送っている通り、
この時も言いたい放題だったみたい。
しかしこの日は虚子も
乙字君の議論が雄大であればある程、聞くものの頭には一種の疑惑の雲が漲つて来て、乙字君はどれ程の点まで得たところがあつてこれだけの議論をされるのであるかを疑はねばならぬやうになつて来る
と、乙字がその論に対して実践が伴ってないことを難じたとか。

松井利彦の『大正の俳人たち』によると、
このことで月並研究そのものも中止してしまったとあるんですが、
そこまで虚子は狭量なのかなぁと思ったりします。
あるいはそこまで乙字の影響力が強かっただろうか、って。
まあともあれ、この時の研究会が第十三回で最終回であることは確かです。

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 2015_04_21




九 「石楠」後半(大正六年~七年)
 月並研究会 その1

大正六年六月五日、先頃亡くなった坂本四方太の遺族のことで
ホトトギス社に来た大須賀乙字は、
そこで誘われるまま「ホトトギス」の月並研究会に参加しています。
「月並」とは、元々「毎月」「月ごと」という意味ですが、
旧派俳諧の人達が月に一度、月次(つきなみ)会を催していたことから、
正岡子規がそういう旧派の俳諧そのものを「月並俳諧」と呼ぶようになり、
それが次第に平凡でつまらない句を「月並」というようになった、
っていう経緯らしいです。
高浜虚子は大正五年六月から「月並研究会」を催し、
その記事が随時「ホトトギス」誌上に掲載されました。
この六月に乙字が参加したのは、第十二回の研究会だったと思われます。

さて、
当時触るものみな傷つけた大正のギザギザハートこと、大須賀乙字ですが、
この席でも例の通りに歯に衣着せぬ批評をするわけです。
しかも、虚子大先生の句。
 蛇逃げてわれを見し目の草に残る 虚子
の句について、
弟子達の面前でこれにダメ出しして、
「蛇逃げて」は「蛇逃げつ」にした方がいいとか言ったのだとか。
後年、乙字を回想して
虚子を倒さなくちゃいかん、虚子を倒さなければ俳句の革新は出来んといって
私を目の敵にして議論したのだと云ふことだが、私はあまり其文章を見なかった

と言った虚子ですが、
さすがにこの日は我慢できなかったようで、
一枚の画を残してます。
「虚子の墓」と書かれた石塔から両手を突き出した幽霊が飛び出している絵で、
その幽霊に「乙字サーン」と言わせているという。
そして、
蛇逃げての句と六月五日の日付が書かれてます。
ユーモア溢れる筆致で、珍品という言葉がぴったりな俳画だろうなと思うんですが、
この俳画が世に現われることになった話が面白いと思ったので、
次回はその話と、二度目の乙字VS月並研究会について書きます。


 2015_04_19



九 「石楠」後半(大正六年~七年)
 鬼城句集選集刊行

 「石楠」が初の句集「炬火」を出したのと同じ大正六年四月に、
中央出版協会から「鬼城句集」が出版されました。
鬼城とは、もちろん村上鬼城のこと。
中央出版協会は、
ホトトギス社の社員だったこともある下山霜山が設立した出版社で、
「鬼城句集」の他虚子著「俳談」「句日記」なども出版してます。
大須賀乙字はこの句集において、鬼城の句から千六十三句を選び、
また、序文を書いてます。
ちなみに稿料はすべて鬼城に贈ったとか。
いかに乙字が鬼城びいきだったかという話ですが。
 「鬼城句集」には、乙字と虚子が序を書いてるんですが、
虚子のものは「進むべき俳句の道」の鬼城に関する部分を抜粋したもの。
でも、
抜粋とはいうものの、
十九ページに渡って鬼城の人となりや
その句の傾向や特色などを丁寧に紹介したもので、かなりのボリューム。
乙字の序は、
芭蕉を俳聖と呼ぶ所以のものは、彼の句に其境涯より出でて對自然静觀に入って居るものが多いからである
明治大正の御代に出でて、能く芭蕉に追随し一茶よりも句品の優つた作者がある。實にわが村上鬼城其人である
冬蜂の死所なくての一章、何ぞ凄惨なる。かの捨蠶といひ石を噛む蜻蛉といひ、皆作者の影である。氏の寫す自然は奇抜の外形ではなく、深く其中核に滲透したる心持であるから、一見平凡に見えて實は大威力を藏して居る
と、鬼城俳句の特色をその境涯に見て、絶賛してるわけです。

さて、この年の乙字とホトトギスの関係をもう少し紹介しておきます。
これは厳密にはホトトギス関係というものではないんですが、
まず四月十四日に行われた内藤鳴雪の古稀祝賀会に出席してます。
ちょっと前にもこれは書いたんでしたっけ。
企画の段階で、
俳人の祝賀会だから俳句会が先ず考えられたらしいんですが、
子規門の長老の祝の席なので、
やっぱり高浜虚子と河東碧梧桐が揃うことが大前提であるとして、
俳句に関係ない能狂言をしようということになったんだとか。
まず虚子と碧梧桐が素人能を舞い、次に玄人能という番組立てだったらしいです。
そこで、さらっとそれが出来る虚子と碧梧桐すごいです。
その後の懇親の席で、
乙字は山崎楽堂と俳句の音調について論じたり、
渡辺未灰(みかい)や斎藤茂吉らと賑やかに盃を交し、
虚子御大と冗談なども交わしたとか。
この会で、乙字はこういう句を贈ってます。
  鳴雪翁の古稀に
健脚の聲高に冴え返る翁かな 乙字

もっと直接的な「ホトトギス」との関係は、
次回書く予定。
当時ホトトギスが行っていた「月並研究会」での話になります。


 2015_04_14




九 「石楠」後半(大正六年~七年)
 「炬火」刊行

大正六年四月、臼田亜浪が興した「石楠」の第一句集「炬火」が刊行されます。
読み方は「きょか」です。
「石楠」創刊より二年、会員数も増加して、
この年の一月号からは、従来の菊倍判から菊版の雑誌体裁にしたところでした。

「炬火」の選句は、
まず亜浪が、既刊の「石楠」から約四千八百句を選び、
そこに風見明成が、補選して約一千句ほど減らして数十句を加え、
最後に大須賀乙字の補選があって、最終的に二千六百句となったということです。
この編集作業において、
亜浪の労が最も多かったということで、
乙字の勧めで「亜浪選輯」「乙字刪存」ということになったとか。
「刪存」は不要なものを削り、足りないものを補うという意味だということみたい。
明成どこいった……という気がしないでもないですが、
多分ネームバリューとか色々な考えがあったのかも知れません。

この「炬火」の題名は亜浪の
 炬火照らし行く霧原の水音かな 亜浪
の句から採られたものなんだとか。
亜浪みずから装丁し、松明の燃えている画を書いてます。

墓参り一人灯ともす草間かな 亜浪
日々降つて畳冷たし棕櫚の花 明成
炎天に池の焼け色動きけり 三幹竹(名和)

この句集の特色は自然観照。
乙字の「俳壇復古論」と、
それに共感した亜浪の志が現われたものと言えると思います。
実際、「石楠」の会員は地方在住の者や、
乙字亜浪と同じ地方出身者が多かったとか。
ええと、忘れてる人もあるかと思いますが、
「俳壇復古論」は、俳句はいにしえに帰れ、芭蕉に帰れ、とした論です。

実は同年同月に、もう一冊の句集が出て、
大須賀乙字が深くかかわっていて、
そして
多分こちらの方が今でも知る人が多いものだと思われます。
それについては次回。

 2015_04_12




九 「石楠」後半(大正六年~七年)
 論戦

大正六年三月、
大須賀乙字は読売新聞紙上に「迷惑せる現俳壇」と題する俳論を発表します。
これは六日、七日の二日にわたって掲載されたもので、
「迷惑」はいわゆる人を困らせるというような意味ではなく、
迷い惑うという意味で、
この現俳壇を迷い惑わせる代表的な作家として
河東碧梧桐、荻原井泉水、高浜虚子の三人を批判したものでした。
これについて碧梧桐と虚子は何も言わなかったとか。
虚子は昭和になって
乙字は碧梧桐の弟子で、私とは関係なかつたです。
虚子を倒さなくちやいかん、
虚子を倒さなければ俳句の革新は出来んといつて
私を目の敵にして議論したのだと云ふことだが、
私はあまり其文章を見なかつた
」(高浜虚子『俳談』)
と言っているように、
乙字の攻撃について表立って何か反論することは無かったみたい。
碧梧桐の方も完全に無視の構えだったのかも。
 しかし世代的に遠い碧梧桐や虚子と違って、同世代だった井泉水の方は、
三月九日、十日、十三日の三日に渡って、
「俳論に於ける理解の越権」と題して乙字へ反論します。
十六日、十七日には乙字が「井泉水氏の俳論を駁す」を書き、
二十五日に井泉水が「錆びた鏡を磨くべきこと」を発表。
ここで、あまり長く論争が続くと困る新聞社の方で
打ち切りを申し出て二人の論戦は終ったとか。
ここの記事が読めたら面白いだろうと思います。国会図書館にコピー頼めばいけるかな。

さて、
この論戦によって、乙字と井泉水の関係がより悪化してしまったようで、
外野は、仲人と花婿が喧嘩してるとうわさしたとかなんとか。
井泉水さんとは、大学時代から御一緒で、
奥様が主人の教え子でそのお仲人をしたこともあり
親しくしておりましたのに、
読売新聞紙上で俳論について論戦をたたかわしたりした以降は
ずっと疎遠になってしまいました

と、乙字の没後、まつ子夫人が語ってます。
ちなみに、このまつ子夫人の談は、
意外にあちこちに少しずつ登場したりしてます。
しかし、まつ子夫人と再婚したのが大正五年の暮れで、
乙字と井泉水が激論を交わして疎遠になったというのが翌六年の三月なので、
どのぐらい親しくしてたのを知ってたのかなと
ふっと思ったり。
意外にそれまで家族ぐるみでお付き合いがあったんでしょうか、
それとも、「そう聞いてたんだけど」ってぐらいの話なんでしょうかね。

 2015_04_07




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